明日から三重県の創愛キリスト教会での創造論宣教に出かけます。創愛キリスト教会の堀越先生は日本の創造論宣教の草分け的存在です。主の導きで、私が4回、紘子さんが1回、奉仕させていただきます。来週の水曜日に帰ります。その途中、東京の一番上の姉と30数年ぶりに会ってくることになっています。それで6月3日まで、1日1章をお休みさせていただきます。あらかじめ、いくつかのポイントを記しておきたいと思います。
19章は、例え話です。前半(1節―9節)は捕えられた子獅子のたとえです。「雌獅子」は「ユダ王国」、「雄獅子」とは「周辺諸国」、最初の「子獅子」(3節)は「ユダの王エホアハズ」、次の「子獅子」(5節)は「エホヤキン王」のことを、それぞれ指していると思われます。後半(10節―14節)は引き抜かれた葡萄の樹のたとえです。11節の「強い枝」とは「ゼデキヤ王」のことです。
20章は、主が祈りを聞かない理由として、1節―32節まで、出エジプト以来のイスラエルの民の不信仰の歴史をつづっています。33節―38節で、捕囚の地での裁きについて、39節―44節では、いつものように、将来の回復と悔い改めの預言となっています。20章45節―49節は、ネゲブに向かっての預言です。これは21章に続く内容です。実際、ヘブル語聖書では、この部分は21章に入れられています。ここには、4つの「剣」の預言がなされています。第1に、「さやから抜かれた剣」(20章45節―21章7節)、第2に、「剣はすでにとがれている、剣の歌」(21章8節―17節)、第3に、「エルサレムに向かう剣」(21章18節―27節)。第4に、「アモン人のためにさやから抜かれた剣」(21章28節―32節)。
22章は、エルサレムが流血と偶像礼拝の罪によって満ちており、その罪が具体的に列挙されています(22章6節―12節)。1節―16節では、エルサレムの町のすべての階層に満ちあれている罪が糾弾されています。17節―22節では、エルサレムは「るつぼ」であり、住民は「かなかす」となったと指摘しています。「るつぼ」にいれられた青銅、すず、鉄、鉛などの様々な金属は、君主、預言者、祭司など、いろいろな種類の人をさしています。彼らは主のさばきによって、価値のない「金カス」であることが明らかにされます。23節―31節で、預言者たち、祭司たち、首長たちの堕落した姿を指摘します。そして、有名な聖句が登場します。30節です。「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかった。それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ・・・」と言われました。今のわたしたちこそ、破れ口に立って、日本の国と世界のために執り成しの祈りをするように強く迫ってくる聖句ですね。
23章は、「オホラ」と「オホリバ」の姉妹が出てきます。あまりに性的な描写が露骨であって、読むのが嫌になると思います。でもそれほど問題の深刻さを表していると感じます。「オホラ]とは、サマリヤを首都とした北イスラエルをさしています。「オホリバ」はエルサレムを首都とした南ユダ王国をさしています。1節―10節は、北イスラエルの淫行とその刑罰、11節―35節は、南ユダの淫行とその刑罰、36節―49節は、両者の罪の告発と宣告です。このなかで淫行として表現されるのは偶像礼拝のことです。主と主の契約の民は、霊的に婚姻関係にあるものでした。ですから、淫行とは、主の契約の民が、主なる神以外の偶像の神々を礼拝する行為です。それと共に、主の契約の民は、主の庇護のもとに守られるものでした。ところが、アッシリアやエジプトやバビロンなど、目に見える強国により頼み軍事同盟を結ぶことは、やはり、主に対する淫行であったのです。
24章は、エゼキエルがエルサレムのさばきについて預言した最後の預言です。1節―14節は、さびが落ちない肉鍋のたとえです。15節―27節は、預言者の妻の死をもって示した最後の警告です。彼はこの預言をしたあと、3年間、沈黙を保ちました。しかし、3年後、エルサレムの滅亡の知らせが届き、エゼキエルは再び、口を開いて今度はイスラエルの回復の預言をするようになりました(24章26節、27節)。
それでは、また。
清宣教師