37章の前半(1節―14節)は、枯れた骨の幻(イスラエルの復興)について、後半(15節―28節)は、二本の杖を一本に(北イスラエルと南ユダの民の一致とひとりの王)について記しています。
前半の個所は、「枯れた骨の谷の幻」として有名な個所です。この箇所を読むと、薄暗い谷に無数の骨がうずたかく積まれていて、なんとなく、不気味な感じがします。しかし、読むうちに驚くべき奇蹟がおこります。この絶望の場所が、神のいのちにみちた希望の場所となります。神の力と栄光が現される場所です。創造主は世界の初めに、アダムを土の塵から身体を造り、いのちの息を吹き込まれて、アダムをいのちあるものとして、神の形に創造されました。ここでは、同じように、枯れた骨に、筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚をかぶせました。そして、最後に、いのちの息を吹き込まれました。この谷にある干からびた骨は、11節で、「イスラエルの全家」であると解き明かされています。エルサレムも崩壊し、すべての希望が絶たれたバビロンの捕囚の地にあるイスラエルの民たちは、まさに、生ける屍(しかばね)のようでした。そこに、この壮大な幻が与えられました。再起不能と思われる干からびた骨が、筋を与えられ、肉を生じ、皮膚で覆われ、いのちの息を与えられて、生き返るのです。14節に、「わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなた方は生き返る」と約束されました。不信仰で不従順なイスラエルの民たちですが、このバビロン捕囚という墓場にいれられたのち、神の霊によって、神の民として生き返るのです。主の約束を信じるなら、このことが実際に成就するのです。ところで、このメッセージは、私たちにも適用されます。私たちの日本の国を思う時、ある意味、霊的な暗黒、福音宣教の実がなかなか見えない、絶望的な状況にあります。しかし、主の息が吹き入れられる時、国家的なリバイバルが起こることを示しています。この幻のみことばを自分たちのものとして相続することにより、この約束が成就するのです。
15節―28節の後半の部分は、二本の杖が一本となるものです。二本の杖とは、「北イスラエル」と「南ユダ」のことです。もともとはひとつでした。しかし、南北に分裂して、その亀裂は修復しがたいものとなり、北イスラエルはアッシリア捕囚となり、影も形もなくなりました。一方、南ユダもバビロン捕囚となり、影も形もなくなりました。しかし、主は、これらの民たちを再び生き返らせ、二つを一つにすると約束されました。そして、ひとりのダビデのような王によって、そのことが成就するのです。このダビデのような王とは、イエス・キリストのことを指しています。キリストの贖いのみわざによって、民たちはきよめられます(23節)。そして、平和の契約に入れられます(26節)。新約聖書を見る時、第2のアダムであるキリストによって、異邦人も、ユダヤ人もひとつにされます。北イスラエルも南ユダもひとつにされます。このように考えるなら、当然、イスラエルもイスラムもひとつにされます。ただ、御子キリストによって、ひとつの神の家族となるのです。
清宣教師