ヨナ書4章では、ヨナの自己中心的な苛立ちと、主の思いやりと優しい対応とが、対照的でしたね。
さて、ミカ書ですが、ミカという名前は、ヘブル語では、「誰が主(ヤハウェ)のようであるのか」という意味です。ミカの出身地はペリシテと国境を接するモレシェテ・ガテという村でした。エルサレムの南西30~40kmのところにありました。彼が活躍した時代は、1章1節の記載から、紀元前750年から687年の間と思われます。
1章では、「サマリヤとエルサレムについて見た幻である」(1章1節)と述べられていました。
北イスラエルの首都がサマリヤ、南ユダの首都がエルサレムです。北も南も、偶像礼拝と腐敗の中で、主の裁きの宣告がなされるのです。
北イスラエルの罪の中心はサマリヤにあり、アッシリヤを用いて、北イスラエルを滅亡させるという宣告です。この徹底した裁きは、南ユダにまで、そして、エルサレムにまで及ぶ(1章9節参照)とあり、南ユダにとって無関係のことではありませんでした。北イスラエルが滅亡してすぐ、南ユダ王国の滅亡が実現したわけではありませんが、南ユダ王国は真剣にこの事態を受け留めるべきでした。
さて、きょうの2章1節―5節では、権力者たちの罪を糾弾しています。権力のある者たちが考えることは、その権力を利用して、貧しいものや弱い者たちから、土地を奪い、自分達の財産を増し加えることでした(1節、2節)。しかし、土地は創造主なる神が、民たちに相続地として割り当てた者であり、勝手に奪い取ってはならないものでした。しかし、支配者たちは、主のみこころを無視して、自分達の財産を増し加えることしか考えませんでした。主は、当然、これらのものを裁かれます(3節)。持てば持つほど欲しくなるのが人間の欲望です。十戒にも「むさぼってはならない」とあります。
2章6節‐11節では、預言の真偽についての論争です。預言者ミカは大胆に主のことばを宣言しますが、権力者たちは、たわごとを止めよといって、ミカの預言をやめさせようと圧力をかけてきました。それに対して、預言者ミカは、「たわごとを言っているのは私ではなくそちらではないか」(6節)といって、やり返しました。そして、預言者ミカは、主を信じて歩む者に対して、「さあ、立ち去れ。ここはいこいの場所ではない。ここは汚れているために滅びる。それはひどい滅びだ」(10節)と語りました。
2章12節、13節では、一転して、散らされていた全イスラエルの民がやがて一つに集められるという祝福の約束を語りました。罪の報酬は罰であり、それを避けることはできませんが、どんなに状況が悪化しても、主の回復の計画も成就されること、主が彼らの真っ先に進まれることを宣言しています。
こうして第1部(1章と2章)、裁きと約束が閉じられています。ついで3章から5章までが第2部、苦しみを超えた希望、6章と7章が、第3部、罪に対する恵みの勝利となっています。
最後に、今日の個所では、「自分たちの手に力があるからだ」(2章1節)のことばが心に残りました。力があることは願わしいことのようですが、それを正しく用いるのはとても、難しいことです。いま、話題になっている東京都知事のケースも、自分の手に力がなければ、あのような不祥事を起こすことはなかったと思います。、私たちも、スケールは異なりますが、主から与えられた力があります。どんなに小さな力でも、正しく用いることが求められています。私たちのうちには、神のかたちが内包されています。神様も、そして、まわりのひとも、みんな私たちを見ています。小さなことに忠実である者には、大事をまかせよう、というのが主の計画です。小さな点でも忠実にすることが主のしもべです。それが主の栄光をあらわすことです。

清宣教師