すっかり、晴れわたりました。きょうは、30度くらいまで上がるかも知れませんね。幸い、少し風があるので、歩いていても、なんとか、なりました。さて、ミカ書6章です。やはり、今日も有名なみことばが登場します。6節で、「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。・・」という問いかけに対して、主が告げられました。8節のみことばです。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何を求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」。明確に主が望んでおられることを表現しています。これは詩篇51篇16節と17節のみことばに通じるものです。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい、砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。」主が求めておられるのは、外面的な礼拝や捧げ物ではないことが明確です。神が求めておられることは、私たちが真に神の子供らしく生きることです。父なる神を尊敬し、御父の教えに従い公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、罪を犯したなら悔い改める心です。今を生きる私たちにとって大事なことは、宗教的な生き方から離れることです。聖日厳守に焦点をあてるのではなく、主への誠実に焦点をあてることです。熱心な奉仕や献金という行為ではなく、へりくだった心からの主への感謝の気持ちに焦点をあてることです。こうして、全知全能なる神との生きた関係の中に留まることです。それが、主日の礼拝、献金、奉仕の原点です。主はあなたが生き生きとして、神の子らしく、日々を過ごすことを望んでおられます。そして、主の日に、神の家族が共に集まり、感謝のしるしである献金を捧げ、互いに仕えあう奉仕をもって神の家族としての絆を深めることです。きょうの歩みが、喜びと祈りと感謝に彩られたものでありますように。
清宣教師