ハバクク3章は、祈りと賛美をもって閉じます。この詩は楽器をあらわす「シグヨノテ」(1節)ということばや、休止符である「セラ」(3節、9節、13節)ということばがあるので、公的礼拝用のものであったことが分ります。
1節~2節では、悪者の滅びと神の民の救いのために、すみやかな主の裁きを求め、主の憐みを嘆願しています。
3節~13節では、エジプト脱出からシナイに至る荒野の生活の中で示された神のちからあるわざを、主が示されています。なかでも7節~11節は、神の民がカナンの地に入ろうとしたとき、諸国が主の怒りに恐れをなしたことを思い起こさせています。そして、同じようなことがハバククの時代にも起こるというのです。12節~15節では、神は激しく怒り、憤り、敵を滅ぼされるのです。それはご自分の民を救うためでした。16節では、主の幻のなかで、カルデヤ人の南ユダへの侵略の幻は、ハバククに非常なショックをあたえ、はらわたはわななき、震えがとまらないほどでした。しかし、ハバククは、信仰をもって神のなさることを受け入れよう、静かに待つことにしようと決断しました。17節~19節は、カルデヤ人の南ユダへの侵略は、人のいのちだけでなく、農作物をも絶滅させる、生きる手段を奪う恐ろしいものでした。しかし、ハバククは、主にあって喜び、私の救いの神にあって喜ぼう、と決断しました。そして、「私の主、神は私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高いところを歩ませる」と信仰の告白をしました.まさに、「正しい人は、その信仰によって生きる」(ハバクク2章4節後半)と記したハバククは、その通りに生きた人でした。
私たちも、もろもろの出来事のなかで、主は真実な方であり、いたずらに人を苦しめるようなことは絶対になさらないお方であり、つねに、私たちに最良最善のものを与えて下さるお方であると信じています。主を信頼することは私たちの力であり、喜びであり、もろもろの出来事の下に押しつぶされるのではなく、もろもろの出来事の上を(高い所)を歩ませてくれるものです。すべての問題は祝福の門口です。主はすべてを働かせて益として下さいます。
清宣教師