ユダヤの国において預言者と言われる人がいなくなってから、つまり、旧約聖書の最後の預言者の時代から約400年の歳月が過ぎていました。いわば、神のことばの空白の時代があったのです。そのような時に、預言者イザヤによって、あらかじめ、語られていた通りに、ユダヤの荒野にバプテスマのヨハネが彗星のようにあらわれました。そして、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と教えを宣べました。こうして、長い間、待望していた預言者が現われたので、エルサレムをはじめ、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の民衆たちが、続々と、ヨハネのところに集まりました。そして、罪を悔い改めて、ヨルダン川でバプテスマを受けました。その中にはパリサイ人やサドカイ人など、当時の政治的、宗教的な指導者たちも紛れ込んでいました。それを見て、ヨハネは、力強く、彼らにも悔い改めを迫りました。さらに、ヨハネは、来たるべき救い主について紹介しました。「私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。・・・」と言いました。それからしばらくたって、ヨハネのもとに、イエス様がバプテスマを受けようとして来られました。それで、ヨハネは当然、辞退しました。ヨハネは「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずです」とイエス様に言いましたが、イエス様は、「今はそうさせてもらいたい」と言いましたので、ヨハネも承知しました。こうして、ヨルダン川でイエス様はバプテスマを受けられたのですが、水から上がられると、天が開け、神の御霊が鳩のように下ってイエス様の上に来られました。そして、天から声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」天からの声は、イエス様の公生涯(おおやけの生涯、およそ30歳)のスタートへの父なる神様のはなむけのことばであるように思われます。イエス様は、このバプテスマを起点として公生涯に入られたのです。振り返ってみると、早くなくなった父ヨセフに代わって、イエス様は「とと兄」(朝ドラ的表現)として、一家の長として、大工さんの働きにより家族を支えてきたのです。イエス様が30歳になり、弟や妹も独立したので、イエス様は神様からの使命である宣教の生涯に入られたのです。
バプテスマのヨハネは、自分に与えられた使命を覚えて、その働きを開始しました。一方、イエス様もご自分の使命を覚えて立ち上がられました。私たちも神様から与えられている使命があります。ヨハネやイエス様のように、神様のご計画の中で、その時が来たら、私たちも立ち上がるのです。それまでは、子供たちを世話したり、生計のために働いたり、あるいは、両親のお世話をしたり、それぞれが置かれた場所でなすべきことがあります。でも明確な召しをうけたら、立ち上がりましょう。今受けている訓練は、いたずらに受けているものではなく、将来の召しのために、すべてが働いて益となるのです。それはあとで分ります。まずは、私たちのなすべきことは、いま置かれているところで、忠実に、主を信頼して歩むことです。私たちは、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する」訓練の中におかれています。この訓練を経たなら、あなたの中に、主の召しに従う土台が築かれたことになります。
清宣教師