イエス様は12弟子を選ばれて、ご自分のもとに呼び寄せられて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになりました。この「権威」のゆえに、弟子たちも、悪霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒すことができるようになりました。12使徒の名は、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスとマタイ、ヤコブとタダイ、シモンとユダでした。イエス様はこの12弟子をまずユダヤの国の中で宣教させました。メッセージは「天の御国が近づいた」という福音です。そして、福音を宣教するとともに、その証しとして、悪霊を追い出し、病気をいやすミニストリーをするように命じました。マルコの福音書16章15節~20節、マタイの福音書28章18節~20節において、イエス様はご自分の「権威」を弟子たちに託しています。私たちにも、その「権威」がたくされているのです(1節~15節)。一方、イエス様は、あらかじめ、福音宣教は「オオカミの中に羊を送り出すようなものです。」と警告されました。福音宣教には危険はつきものということです。覚悟してでていかなければなりません。役人たちに引き渡される覚悟も必要です。しかし、それは異邦人の総督たちや王たちに証しする機会となり、聖霊様がなにを話すべきかを教えて下さると約束されました(16節~19節)。さらに、イエス様はやがて起こるべき、迫害の時代についても言及されました。「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます」と究極の約束を与えられました。殉教の死もあるということです(20節~23節)。夫婦であっても、親子であっても、信仰のゆえに、敵となり密告されることもあるというのです。これはその後の歴史で実際に起こった出来事です。日本のキリシタンの禁教令においても、隣組制度のもと、密告する者があらわれました。ですから、イエス様は、ここで、あらかじめ、全世界のキリスト者に対して「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」と言われ、警告と約束を同時に語られたのです(24節~39節)。なお、このような過酷な時代においても、神の報いは必ずあること、もしキリストの弟子であるという理由で、水一杯でも飲ませるなら、必ず神様からご褒美として素晴らしい報いがあるというのです(40節~42節)。
戦後は、平和な時代にめぐまれましたが、いまはISやISに感化されたテログループの人質になるという危険性を誰も否定できなくなりました。万一、そのような場におかれたら、私たちはイエス様にある信仰の証しを立てなければなりません。でも、主が共にいてくださいます。もともと共産圏諸国、イスラム圏諸国、あるいは、ネパールなどにおいても、クリスチャンは死を覚悟しなければイエス様を信じる信仰を貫くことは不可能でした。日本はそういう意味で例外的な国でした。しかし、この終わりの時代に、私たちは、ある意味、いのちがけの信仰が問われる時代に入りつつあります。それは悪いことではなく、本来の信仰に立つチャンスであるということです。
清宣教師