最初にイエス様は、弟子たちに対して、あと2日後に、自分は逮捕されて十字架に付けられると予告しました(2節)。今日の26章は比較的長い個所です。6節―13節では、ひとりの女がイエス様の頭に大変高価な香油を注いだことを記しています。これを見た弟子たちが、どうしてこんな無駄をするのか、と言ってその女をなじりました。この香油を売れば、多くの貧しい人に施しが出来たのにという批判でした。なぜなら、その香油は特別に高価なもので今でいえば、300万円くらいするようなものでした。それをただ、イエス様の頭に注いだのです。注いでしまえばあとは何に使うことも出来ません。一瞬にして300万円が消えてしまったのです。ところが、イエス様は、この女はわたしの埋葬の用意をしてくれたのですと言われました。さらに、やがて世界中でこの女がしたこと語られるようになる、と言われました。その通り、いまでは、世界中の教会で、この女がしたことが語られています。イエス様はなぜこれほどまでに、この女のしたことを賞賛されたのでしょうか? 第1に、この女は、高価なものを惜しまずにイエス様に捧げました。彼女にとって、イエス様に捧げるのに高価すぎるという考えは思いも浮かばなかったのです。一方、弟子たちの心には、これほどまでにしなくても良いという思いがあったようです。彼女は、これを売ったらいくらになるか、などという弟子たちのような計算をするような思いは微塵もなかったのです。おそらく、家にある物の中で、一番、高価なものを捧げたかったのでしょう。第2に、この女は機会を逃すことなく、香油を注いだのです。この『時』を彼女は知ったのです。弟子たちは、2節に記されているように、イエス様が2日後に逮捕されるという予告を聞いていながら、ほとんど、その情報を無視していました。一方、彼女は、この情報を聞いていなかったと思われますが、イエス様の言動から危機が迫っていることを察したのか、あるいは、神様の内なる声にいつも心を傾けていたのか、ともかく、この機会をとらえて最高の香油をイエス様に注いだのです。第3に、この女はイエス様の埋葬の用意をしたというのです。イエス様は、あと2日後に、十字架につけられることが迫っていました。それは、イエス様の心の中で最大の関心事でした。あとで紹介されていますが、ゲッセマネの園では、3度も、「できますなら、この杯をわたしから去らせてください」と祈られたことから分ります。しかし、弟子たちは、イエス様の心の中の最大の葛藤がわかりませんでした。ゲッセマネの園で、イエス様から「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」と執り成しの祈りを頼まれたにもかかわらず、弟子たちは3度とも、途中で眠りこけてしまいました。このような状況の中で、ご自分の死を覚えて、埋葬の準備として、最も高価な香油を注いでくれた行為は、最大の励ましでした。この女がしたことは、イエス様がもっともしてほしかったこと、でした。私たちは、イエス様のみこころを知りたいと願い、いつも、イエス様に関心を向けて、機会を逃さずに、イエス様のために自分を捧げているでしょうか?私たち人類の中に、このような女性がいたことは、私たちにとって大きな慰めです。イエス様を喜ばせることができる人になりたいです。
この後、ユダの裏切り(14節―16節)、最後の晩餐(17節ー29節)、弟子たちへの警告(30節―35節)、ゲッセマネの祈り(36節―46節)、イエスの逮捕(47節―56節)、大祭司と議会の前での審問(57節―68節)、ペテロの裏切り(69節―75節)と続きます。この一連の流れの中で分ることは、イエス様の心は最後まで、弟子たちと共にあったということです。しかし、12弟子たち(みな男性でした)の心はイエス様から離れていたので、結局、流れに飲み込まれて、信仰に堅く立つことが出来ませんでした。きょうの出来事の中で、やはり、一番心に残るのは、流れに巻き込まれることなく、信仰に堅く立って、イエス様に香油を注いだ女性のことでした。私もその場に居合わせたら、弟子たちと同じように、憤慨していたのだと思います。そこが男性の弟子たちの弱点でした。一方で、女性の弟子の優れたところが浮き彫りにされているように思います。イエス様の心に寄り添う姿勢です。
清宣教師