過ぎ越しの祭の前の事でした。イエス様は、12弟子たちと一緒に最後の晩餐をされました。そこにはイエス様の強い思いが込められていました。イエス様は、この世を去って天の父のもとに行くべき自分の最期のときが来たことを知っておられたのです(1節)。それで、この世に残される弟子たちのことを思われて、ご自分の愛を残るところなく示されるためでした。「その愛を残るところなく示された」という表現に驚きます。イエス様は12弟子たちをひとりひとり愛されていました。裏切り者のユダさえも愛されていました。私自身、70代になると、死ということが身近に感じるようになりました。ある人は、人生の終わりに何を残すのか、家族に対して、社会に対して何を残すかが大事であると述べています。そのような本を読んだり、お話しを聞いたりして、私の場合は人生の最期になにをすべきだろうかと考えてきました。そして、今日この箇所にあるイエス様のなさったことを読みました。イエス様のように、愛を残るところなく示すことが出来るような人生の終わりを迎えたいです。イエス様はすべてにおいて模範を示してくださっています。
そのあと、イエス様はご自分の腰のタオルをまかれて、弟子たちひとりひとりの足を洗われました。そして、イエス様は言われました。「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗うべきです。わたしがあなたがたにした通りに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」(14節、15節)。そして、そのあとで「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)と言われました。イエス様は、この世で残された人生を送るべき弟子たちに対しての模範を示されたのです。それは、お互いに足をあらいあう謙遜な生き方、愛し合う生き方でした。
この世において、どのように生きたらよいのか、そして、人生の最期において、この世に何を残したらよいのか、その模範を、イエス様は教えて下さっています。このふたつのことを実践したら、私たちはイエス様に似た人生をおくることになりますね。なんと、素晴らしい模範を、イエス様は残してくださったことでしょう。イエス様に感謝します。
清宣教師