サウロの劇的な回心のあと、使徒ペテロの働きが記されています。この後、次第に宣教のフロンティアが異邦人宣教へとシフトしていく突破口としての出来事が記されています。カイザリヤという町での出来事でした。カイザリヤは、ローマ軍が駐屯する町でした。そこにイタリヤ隊という部隊が配置されていました。イタリヤ隊は歩兵部隊です。コルネリオは、その部隊の百人隊長でした。
当時、ユダヤ人の社会では、割礼のない異邦人との接触を極力さけていました。その背景には、二千年を超える民族的な排他主義がありました。このような世界観は、12使徒たちを始め、ユダヤ人クリスチャンたちのなかにも、深く根付いておりました。しかし、神のご計画は、異邦人への宣教という突破口を開くというものでした。この章では、聖書全体をみても他に例がみられないような分量を割いて、コルネリオという、ひとりの人物の回心の証しを紹介しています。異邦人への福音の宣教という出来事は、日本の中の歴史上の出来事に例えてみると、鎖国をしていた日本人が、開国に踏み切るような大きな出来事でした。
神様は、まず、当時のキリスト教の指導的な立場にあった12使徒の代表であるペテロを用いられました。ペテロは、ヨッパという港町に滞在していました。昼の12時頃、幻をみました。それは3度、繰り返されました(10章16節)。3度ということは、それだけ重要な出来事であることを示すと同時に、ペテロにとって受け入れがたい(とても理解できない)ことでもあったからです。ペテロは、ユダヤ教の伝統を守り、汚れた動物を口にしたことはありませんでした。しかし、神は、そのような動物を与えて、「ペテロ。さあ。それをほふって食べなさい」と言われたのです。ペテロはそれを食べることを拒否しました。しかし、神は、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」と言われたのです。その不思議な出来事は、その後、ペテロの身のまわりで起こることへの実物教訓的なしるしでした。ペテロが、この幻は何を意味するのか考えているところに、コルネリオから遣わされた人たちが、ペテロが宿泊している家を訪ねてきたのです。神は、その前日の午後3時の祈りの時間に、あらかじめ、コルネリオに御使いを遣わして、使徒ペテロを家に招くように命じられていたのです。コルネリオは、全家族と共に神をおそれかしこむ敬虔なひとでした(10章2節)。
使徒ペテロは、異邦人からの招待に、最初とまどいましたが、幻を思いだして、これまでの古い伝統の殻を破って踏み出しました。そして、ペテロは、カイザリヤのコルネリオを訪ねることにしました。「ヨッパの兄弟たちも数人同行した」(23節)と記されています(炎のランナーの創造論サポートチームのはしりのようですね)。コルネリオは、早速、ペテロを出迎えました。まず、ペテロがユダヤ人の伝統(律法)に背いてまで、コルネリオのもとを訪ねることにした理由について、幻で教えられたことを分かち合いました。次に、コルネリオが、御使いが現われて命じられたことを分かち合いました。この場面を見ると、もうすでに、ユダヤ人と異邦人という場面ではなく、お互いに、クリスチャンとして神のみわざを分かち合っている兄弟姉妹のように感じます。それから、いよいよ、ペテロの説教が始まりました。旧約聖書に啓示されていたメシヤがイエスであることを示し、十字架と復活の福音を語りました。すると、キリストの福音に耳を傾けていたコルネリオや家族や知人、友人たち、つまり、異邦人たちの上に、聖霊の賜物が注がれました。つまり、目に見えるしるしとしての異言や神への賛美のことばが、彼ら異邦人たちの口からほとばしり出たのでした。そこで、神の御介入が明白になりました。つまり、神は、ユダヤ人とか異邦人とかいう隔ての壁を取り払い、キリストの福音を信じるものにはすべて、救いをお与えになることを知ったのです。そこで、ペテロは、「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水を差しとめて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることが出来ましょうか」と述べて、イエス・キリストの御名によってバプテスマを授けました。このことで、後に、ペテロはエルサレムにいた割礼を受けている人たちから非常に強い非難をうけました(11章)。コルネリオへの宣教は、千年、2千年にわたるユダヤ人の伝統を打ち破る突破口となったのです。
この異邦人コルネリオとその家族の救いは、私たち異邦人の救いの原点です。まだイエス様を信じていない私たちの家族のために、主なる神様が、私たちを聖霊様で満たし、家族の救いのために用いて下さいますように。
清宣教師