主の平安がありますように。この使徒の働きは、ふたつに大別されますが、1章から12章までと、この13章から28章までです。これまでにも異邦人宣教の兆しがみえていましたが、13章で、異邦人宣教へのシフトが明確化されています。パウロたちは「異邦人の光」としての使命を果たすために、異邦人宣教に専念することを宣言しています(46節、47節))。また、宣教の主役がペテロからパウロに変わります。パウロの一行(つまり、パウロをリーダーとする宣教チーム)という表現が記されています(13節)。
これらのシフト転換のきっかけは、歴史上初めてアンテオケに立てられた異邦人教会において、バルナバ、シメオン、クレネ人ルキオ、マナエン、サウロなどの預言者や教師たちが礼拝し、断食している時の事でした。アンテオケ教会はまだ誕生してから若い教会でした。この中のニゲル(黒人)と呼ばれるシメオンとは、もしかしたらイエス様の代わりに十字架を負った、あのクレネ人のシモン(マルコ15章21節参照)かも知れません。アンテオケ教会のメンバーたちが主を礼拝し、断食していると、聖霊がメンバーに語りかけました。「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」 聖霊は誰かひとりのメンバーに語りかけたのではなく、ここで礼拝し断食していたメンバーたち(つまり、アンテオケ教会の共同体)に語りかけたのです。そして、共同体として、アンテオケ教会は断食と祈りのうえ、ふたりの上に手を置いて(按手して)から、彼らを送りだしました。異邦人への世界宣教のきっかけは、人間が発案したものではなく、教会の討議の結果、決議されたのでもなく、聖霊が共同体のメンバーに語りかけられたことから始まったのです。主は、ご自分の計画をもっておられ、その教会に聖霊によって告知されたのです。具体的には預言者がそのことばを取り次いだと考えられます。さて、彼らは、アンテオケの教会から送りだされて、最初に、地中海のキプロス島にわたりました。ここはアンテオケから100キロメートルも離れていないところで、バルナバの出身地でした。アンテオケの教会にもキプロス島出身の信徒が少なくなかったと思われます。バルナバにとっては郷里伝道でした。そこで、彼らはキプロスの総督と出会います。それを邪魔しようとしたユダヤ人の魔術師バルイエスが、パウロによって一時的に盲目とされます。使徒の働きの著者ルカは、ここで、サウロ、別名パウロと紹介して、以後、パウロとして名前を記述するようになります。サウロは、イスラエルの初代の王サウロに由来したユダヤ名であったと思われますが、パウロとは「小さき者」というローマ名であると言われています。異邦人宣教のために、ローマ名を用いるようになったと推測されます。さらに、著者ルカは、「パウロの一行」(13節)と記すことにより、バルナバをリーダーとした一行が、むしろ、パウロをリーダーとした宣教チームとして、再編成されて、新しい宣教旅行が始まったことを示しています。パウロの一行は、キプロスから、小アジアのパンフリヤのベルガの港へ渡りました。このとき、一行の中のマルコ・ヨハネが、一行から離れてエルサレムに帰って行きました。このことは、のちのち、バルナバとパウロとの間の論争のたねとなってしまいました。マルコ・ヨハネは、自分のいとこのバルナバについて来ただけなのかも知れません。ところが、パウロがリーダーになってしまったので、パウロにはついて行けないと判断したのかも知れません。あるいは、ホームシック、伝道の現実に直面して、自分には無理と思ったのかもしれません。パウロの一行は、マルコ・ヨハネを除いて、小アジアのピシデヤのアンテオケに進みました。ここで、混乱しないようにお願いしますが、「ピシデヤのアンテオケ」は、パウロを送りだした「シリヤのアンテオケ」とは違います。名前が同じですが、まったく別の町の事です。そのピシデヤのアンテオケでは、いつものように、安息日に、ユダヤ人の会堂に入り、メッセージしました。それは旧約聖書から、救いの歴史を解き明かし、ユダヤ人によって拒絶され、十字架につけられたイエスこそ、救い主であることを語り、決断を迫りました。それに対して、ユダヤ人たちが拒絶したので、パウロは、「これからは異邦人の方へ向かいます」と、公けに、宣教のシフトをユダヤ人から異邦人へと転換することを正式に宣言しました。かくして、パウロとバルナバは、異邦人宣教の決意を新たにして、次の町へと旅立ったのです。
清宣教師