昨日、三神峰の公園を散歩しました。階段を上って入り口のところから、紅葉と緑葉が混じり、とても美しい光景でした。公園をひとまわり、息をのむような紅葉、銀杏の黄葉、感動でした。皆様の近くにも紅葉の美しい創造主の作品があると思います。味わってみてください。
ローマ人への手紙の1章18節~32節では、異邦人の罪が指摘されました。それはたとい聖書の啓示がなくても、創造主の作品である被造物が、天地創造から今に至るまで、創造主の存在とご性質を啓示されているのだから、神(創造主)などいないということは出来ない。それにもかかわらず、偶像礼拝により創造主を否定してきた異邦人の罪は明らかである。彼らは、死に至る罪であると知っていながら、同性愛をはじめとする欲望の罪の中に生きている、しかも、それを忌み嫌うのではなく、自分たちの生き方として同意しているのである、と指摘しています。ローマ人への手紙2章1節~29節では、自分たちは創造主を知っている、神の律法を知っていると自認して異邦人たちをみくだし裁いているユダヤ人たちに対して、そのような裁きをする自分たちもまた、あたかも神を知らないような生き方をしていると、パウロは言いきっています。律法を知っていることが、神の前に義とされるのではなく、神の前では律法を行うものが義とされるのである、とパウロは断言します。たとい、律法を知らなくても、律法にかなう行いをしているなら、異邦人であっても、神の前に義とされるのであり、律法を知っているユダヤ人であっても律法に従わないなら、神の前に不義とされるのである。神の前には、ユダヤ人とかギリシャ人とか、○○人ということで、えこひいきれることはないからです。つまり、神の前には、律法を知っているとか、割礼を受けているという、外見上のユダヤ人が真のユダヤ人ではなく、たとい異邦人であっても、律法にかなう行いをしているなら、それは真のユダヤ人であり、神の前に受け入れられる霊の割礼を受けている人なのです、とパウロは言います。そして、逆説的に、自分たちは律法と割礼を知っているとするユダヤ人は、むしろ、その誇りとする律法のゆえに、律法に従わない自分自身を言い訳のできない明確な罪に定めているのです、とパウロは述べています。
3章では、「では、ユダヤ人にとって、自分たちを罪に定めるこの割礼や律法には、どんな意味があったのでしょう。」という質問から始めています。それは、第1に、世界中で神のことばを委ねられた唯一の民である、ということです。それは、不従順な民のゆえに、神の御名を汚してしまいましたが、しかし、本来のユダヤ人の使命は、神の素晴らしさを証しする民として選ばれたのです。でも、ひとつ質問が起こってきます。それは、ユダヤ人の不従順のゆえに裁きを受けることにより、神の真理が明らかになるのであれば、なぜ、ユダヤ人が裁きを受けるのでしょうか、という質問でした。また、罪を義とするのが神の福音であるなら、さらに大きな罪を犯すことにより、さらに大きな神の義が明らかになるのだから、罪を犯した方が、神の栄光になるのではないか、という質問も出てきました。それに対してパウロは「もちろん、このように論じる者どもは、当然罪に定められるのです」と答えています。このような質問は、人間的な屁理屈であり、こんな理屈で、自分たちの罪深い性質を正当化することは出来ません。
「私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシャ人も、すべてのひとが罪の下にあると責めたのです」(3章9節)。ここまで、異邦人の罪(1章18節~32節)、ユダヤ人の罪(2章1節~3章8節)を指摘してきましたが、この3章9節~20節は、もう一度、すべての人は罪人であることを再度、強調しています。「義人はいない。ひとりもいない」、「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」と結論付けています。そして、3章21節~31節で、パウロは信仰による義認の道を解き明かしています。私たち、全世界の人類は紛れもなく罪人でり、その罪人が救われる唯一の道は、イエス・キリストを救い主として信じる道である、と断言しています。すべての人は罪を犯したので神から栄誉を受けることが出来ない。しかし、神の恵みにより、御子イエス・キリストの贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。この道だけが、救いを得る唯一の道であると、パウロは断言します。旧約聖書でも、そのことは示されていました。罪を犯した者は、祭司の前で、自分の身代わりに小羊を捧げました。傷のない全き小羊は両手両足を縛られて、祭壇の上に置かれました。そして、祭司の手によってナイフで、のどを切り裂かれて、その血が祭壇の上で流されました。同じように、神の御子は、両手両足を十字架に釘づけにされて、そのいのちを断たれました。神の御子が、ご自分のいのちの代価を払うことにより、私たちは値なしに(代価を払うことなしに)、神の前にすべての罪が赦された者(罪のない者)、つまり義と認められたのです。神は、御子の代価を支払うことにより、人類の罪を赦されました。ここに神の義が示されました。そして、神の愛が示されました。ユダヤ人も、ギリシャ人も、ただ、神の御子を信じる信仰によってのみ、罪赦されて、義とされるのです。これは神の律法を無効にすることではなく、この唯一の道によって、神の律法が全う(確立)されたのです(3章31節)。主の霊が皆様の上に豊かに注がれますように。神の義と愛が、皆様の心に明らかに示されますように。
清宣教師