きょうも、すがすがしい天候です。朝、家の玄関を開けて外に出た途端、元気をもらいました。皆様も、少し時間を見つけて、空を見上げ、創造主の作品をみて元気になって下さい。皆様の上に、主の祝福が豊かに注がれますように。
5章と6章では、教会内の道徳的な問題を取り上げています。5章1節―13節で、パウロは教会内の不品行について述べています。信頼できる人からの情報によると、「異邦人の中にもないほどの不品行」たとえば、「父の妻(自分の継母)を妻にしている」ということが、コリントの教会内で、現実に起こっているということでした。旧約聖書の中で固く禁じられている近親相姦の罪でした。そのようなことがありながら、コリントの教会は誇り高ぶっていると、パウロは言います。なぜなら、そのような不品行を行っている者を除こうとすることもなく、悲しむこともしないからです。パウロとしては、パウロ自身の義務として、体はそこにいなくても、霊においてはそこにおり、その罪を犯した人をサタンに引き渡しました。つまり、霊的には教会から除名したのです。その意味について、パウロは彼の肉体は滅びても、彼の霊が主の日に、救われることを願っての処置であることをも明らかにしています。悔い改めのチャンスは残されているのです。その上で、パウロは、コリントの教会がなすべきことを勧めています。高慢になってはいけない、と言います。謙遜になって、他の人の意見をも聞くべきなのです。わずかなパン種が、粉の塊の全体を膨らませるように、一人の人の悔い改めていない罪も、教会全体に対して、霊的に大きな影響を及ぼすのです。過ぎ越しの祭の時、パン種は取り除いて、祭りを祝います。同じように、教会内の罪についても、それを取り除く処置が必要なのです。それにしても、誤解して欲しくないことがあります。以前の手紙で、「不品行な者たちと交際しないように」と書きましたが、それは、世の中の人たちと交際しないようにとの勧めではなく、教会内のクリスチャンで、しかも、不品行や偶像礼拝などの罪を犯している人たちと交際しないようにという意味です。もしそうでなければ、私たちは世の中から出て行かなければならなくなるでしょう。そうではなく、教会の内部のことについては、私たちは、裁くべきは裁き、きちんと、教会内の霊的な状態を聖くたもち、管理する責任があるのです。教会は船に例えられます。船は、水の中でこそ、浮かびます。しかし、船に穴が開いて、水が船の中に入り込めば、船の役目は果たせません。クリスチャンは地の塩に例えられます。塩が塩気をなくしたら、なんの役にも立たずに捨てられるのです。教会は、この世において、神の教会としての聖さが求められます。それを失ったら、なんの役にも立ちません。それで、最後の13節で、「その悪い人をあなたがたの中から除きなさい」と命じたのです。
父なる神は、私たちを地獄の苦しみから救い出すために御子を遣わされました。そして、御子を信じる者たちが、御国を受け継ぐものとして、ふさわしくするために、御霊を遣わされました。御霊は、私たちを、あるべき御子の似姿に変えてくださるのです。イライラからの解放、自我からの解放、高慢からの解放、無関心からの解放、そして、真の愛と平和と喜びに満ちた神の子の姿へと変えて下さるのです。
清宣教師