朝は雨模様でしたが、いまは青空も見え始めました。昨日はギャザリングという集会がありました。九州をはじめ全国から、とくに仙台(宮城県、広くは東北地方)を祝福するというただ一つの目的で、多くのクリスチャンたちが集まって下さいました。このような集会を通して、主の祝福が仙台に注がれております。私も、多くの先生や兄弟姉妹から祝福の祈りをいただきました。その中には、以前、九州の宣教旅行でお世話になった先生方もおられました。みなさん、再会を喜んでくださいました。大きな感動と喜びと励ましをいただきました。
きょうの8章は、教会における牧会の現場では、愛に基づいて判断することが知識に優先することが示されています。具体的には、偶像への供え物に関する問題でした。コリントの町は、異邦人の社会ですから、多くの偶像がありました。当時の教会が置かれた状況は、多かれ少なかれコリントの教会と似たものでした。偶像に捧げられた肉は、その一部を祭司が食べ、残りは供えた者が家に持ち帰って食べたり、あるいは、市場で売られていました。そのために、偶像にかかわりのない肉を手に入れることは難しいという状況がありました。ユダヤ人は、偶像に捧げられた肉を食べれば、自分が汚れてしまうということで、このような肉を決して食べませんでした。異邦人キリスト者の中でも、「偶像に捧げた供え物」は避けるように言われていました(使徒の働き15章29節参照)ので、偶像にかかわる肉を一切食べないように、恐れと心配に満たされている人たちがいました。一方、コリントの教会の中のある人たちは、偶像の神など実在しないのだから、偶像に供えられたものを食べても一切、害など受けるはずがないと主張して、大胆に肉を食べる人たちがいました。パウロは、確かに、知識のある人たちが主張していることは、真理であり、論理的にも正しいことを認めています。しかし、その知識をすべての人が共有しているわけではなく、ある人たちは偶像に捧げた肉を食べることにより、自分は罪を犯したと落ち込んでしまうかも知れません。あるいは、絶望して、主イエスへの信仰さえ、放棄してしまうかも知れません。知識のある人は強いので、その知識で弱い人を見下したり、裁いたりして、弱いクリスチャンを追い詰めてしまう恐れがあることを、パウロは指摘しています。しかし、もっともっと大きな視点で、つまり、途方もない愛と恵みに満ちたもう神の豊かさの視点から見れば、肉を食べるか食べないかは、救いとは無関係であることが分ります。食べても食べなくても良いなら、弱いクリスチャンの信仰を追い詰めることがないように、愛をもって肉を食べないという決断こそ、キリストのみこころにかなうものであることを知る必要があるのです。みながキリストにあって成長するなら真の知識の一致に到達します。それまでは、強い者は、弱い者の弱さを担う心が必要です。
今、私は頼人くんを抱っこしてパソコンに入力しています。鼻がぐづついているようです。反り返ってキーボードを見ています。この辺で、きょうの1日1章を閉じます。いま、頼人くんが腕の中で寝息を立てて眠りは始めました。みなさま、風邪をひかないように、お祈りしております。チャンスがあったら、レモンと蜂蜜の熱いお湯を飲むと良いかも知れません。それでは、また。
清宣教師