きょうはプラスチックごみの回収日ですから、ごみ袋をもって玄関をでました。外は青空、気持ちが良いです。今朝は小さなトラブルがありましたが、すがすがしい思いによって満たされました。エデンの園はどんなに爽やかな1日の始まりだったことでしょう。きょうも、主の祈りのように、天において御父のみこころがなされているように、私たちのこの世界において、御父のみこころがなされますように、祈ります。世界の難民の方々の生活が守られますように、また、日本の原発難民の方々の生活が守られますようにお祈りいたします。
11章2節―16節では、女性の頭のかぶりものについて、また、髪の長さについて、パウロの意見を述べています。これには当時の風習が関係していたと考えられています。例えば、当時のコリントの町では、頭にかぶりものをつけないのは、売春婦の特徴のひとつであったという解釈があります。いずれにせよ、パウロが言いたいことは、聖書が示すところによれば、女性のかしらは、男性であり、男性のかしらはキリストであるという創造の秩序があり、そのことを表現するしるしとして、女性は頭にかぶりものをつけ、男性はかぶりものをつけないこと、を勧めています。つまり、まず、アダムが神によって創造され、次に、アダムからエバが造られたという順序を言っていると思われます。ただし、男性も女性を抜きにしては存在できないこと、例えば、男性はみな母親という女性から生まれます。だから、男性も、女性も、お互いを抜きにしては存在できないのであり、男女の間に優劣はないということも、パウロは明らかに示しています。ただ、パウロとしては、世の中には、いろいろな習慣があるけれでも、神の教会の秩序としては、自分が述べた習慣がふさわしいと述べています。
17節―34節では、主の晩餐(聖餐式)について、述べています。まず、17節―22節で、持って来たものを、めいめいが勝手に食べてしまうことをやめるように注意しています。やはり、共同体ですから、貧しい人も、豊かな人も、お互いに楽しく食事をして、主の晩餐にあずかるように勧めています。次に、23節―26節で、主の晩餐の意味とやり方について教えています。主の食卓のパンはキリストの裂かれた体をあらわすものとして、主の食卓の杯(ブドウ液)はキリストの流された血潮をあらわすものとして、キリストの十字架の贖いのみわざを覚えて行うように勧めています。最後に、27節ー34節で、ふさわしくない態度で、主の晩餐に臨むことがないように勧めています。主の晩餐では、兄弟姉妹がみな、ひとつのパンを食べるという意味をも踏まえて、めいめいがバラバラに行うのではなく、ひとつであることを表すものであるように心がける必要もあるのです。
きょうの個所は、教会におけるふさわしい風習について述べられていましたが、髪の長さやかぶりものについては、時代と共に、また、社会の変化と共に、変わり得るものです。ただ、教会の男女のふさわしい風習の土台となるのは、創造の秩序です。創造主は、ご自分の姿に似せて、男と女とに創造されました。これは、時代が変わっても、社会が変わっても、変わらない土台です。
今日の聖書箇所から考えさせられたことですが、男性と女性の違いをもたらされた創造主の意図を深く知ることは、とても重要な事柄であると思いました。クリスチャンの男女としての生き方が、その中に隠されているからです。そして、夫と妻の関係の中に、キリストと教会の関係の奥義が隠されていると言われているからです。
きょうも、主の御手の守りと導きが、皆様ひとりひとりと共にあることを宣言します。
清宣教師