昨日からピリピ人への手紙に入りました。この手紙は別名、「喜びの手紙」と呼ばれています。その由来は、「喜び」ということばが、この手紙の中で16回も使われているからです。その喜びの源は、キリスト・イエスの十字架の福音でした。「福音」ということばも、この手紙の中で9回も用いられています。パウロは、悪名高いローマの皇帝ネロの時代に、殉教の死を遂げたと言われています(AD.67年~68年)。そして、このピリピ人への手紙を書いたのは、AD,61年頃と言われています。執筆の場所は、意見が分かれますが、1章13節や4章22節のことばから、ローマの獄中にあった時と思われます。
ピリピの教会は、パウロの第2回伝道旅行の際に、パウロの伝道により、紫布の商人であったルデヤ(女性)が救われ、また、看守とその家族が救われ(使徒の働き16章12節―34節)、ヨーロッパ最初の教会として誕生しました(AD.50年頃)。ピリピはローマの植民都市のひとつで、ローマとアジアをつなぐ、交通の要所にありました。
この手紙を把握するために、背景となる事柄を記しておきます。獄中にあったパウロのために、ピリピの教会は献金を集めて、エパフロデトに託して、献金をパウロのもとに届けました(4章18節)。ところが、エパフロデトは、献金を届けた後、ローマの地で重い病気にかかりました(2章27節)。そして、エパフロデトが病気から快復したときに、パウロはピリピの教会への感謝の手紙を書いて、エパフロデトに託して、ピリピの教会に送りました。その際、手紙の中で、ピリピ教会の不一致の問題(4章2節、3節)や異端の問題(3章2節、3節、18節、19節)などの解決を願ってアドバイスのことばも書き添えています。それが、このピリピ人への手紙です。
1章1節―2節では、パウロは、当時のローマの手紙の書き方にならって、差出人、受取人、挨拶という順序で、手紙を書いています。なお、自分のことを「キリスト・イエスの使徒」という表現ではなく、「キリスト・イエスのしもべ(奴隷)」という表現をもちいて、主に対する絶対服従の姿勢を伝えています。受取人は、ピリピの教会の「聖徒たち」です。聖徒というのは、聖人とか、完全無欠な人の意味ではなく、キリスト・イエスの血潮によって罪赦された罪人たちのことを指しています。そして、教会のリーダーとして立てられている監督(長老)や執事たちに宛てられたものです。1章3節―8節では、感謝の挨拶を述べています。1章9節―11節では、パウロの祈りを記しています。1章12節―26節では、パウロの入獄とその意味について伝えています。入獄は決してわざわいではなく、福音を伝える機会となっていることを指摘しています。パウロは、毎日交代する番兵たち(ローマ皇帝の親衛隊のメンバーと思われる。1章13節参照)に、福音を語ることが出来、その結果、ローマ皇帝のカイザルの家に属する人たちの中からもキリストを信じる者が起こされたというのです(4章22節参照)。パウロは、「私にとって生きることはキリスト、死ぬことも益です」(1章21節)という生き方をしていました。それで、この手紙の読者に対して、「ただ一つ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」(1章27節)と明確なことばで命じています。
この1章27節~2章18節は、クリスチャンとしての生き方の原理について述べています。福音にふさわしく生活しなさいと命じたパウロは、具体的に、その内容について述べています。それは一致を保つ生き方です。不一致の原因は自己中心や虚栄です。それらのものを除くこと、そして、お互いに人を自分よりすぐれた者と思うこと、自分のことだけでなく、他人のことも顧みる生き方です(2章1節―11節)。そして、それぞれ、自分自身の救いの達成を目指して、最後までやりとげることです(2章12節―18節)。
2章19節~2章30節は、ふたりの弟子のことを証ししています。まず、ローマの獄中にあってパウロが信頼し、身の回りの世話をしていた愛弟子であるテモテのこと(2章19節―24節)、次に、ピリピの教会から遣わされてきたエパフロデトのこと(2章25節―30節)です。パウロは、このふたりをピリピの教会に遣わそうとして、この二人の証しを記したようです。まず、テモテは獄中にあるパウロ自身の代わりにピリピの教会に、そして、エパフロデトは、獄中にあるパウロのことを報告するためにピリピの教会に、それぞれ帰ることになるので、この二人のために、パウロは推薦のことばを書いていると思われます。パウロの温かい心配りが伝わってくるようです。
それでは、また。
清宣教師