北日本や北海道では、大雪のようですが、仙台はそれほどの雪は降らなかったので助かりました。
さて、4章に入りましたが、まずは一致と協力の要請でした。ユウオデヤとスントケという二人の姉妹の間に対立と不一致があったようです。おそらく、ふたりともピリピの教会内では影響力をもっていたと思われます。パウロの宣教を手伝ってくれる姉妹たちでしたが、残念なことに、、それそれが自分自身の意見に固執して対立してしまったものと思われます。そこで、パウロは、「真の協力者」(名前とすれば、スズコスさん)に二人の間を一致へと導いてくれるように依頼しています(2節、3節)。
4節~7節では、まず、「いつも主にあって喜びなさい」と、継続的、不断の喜びの生活を勧めています。ついで、何も思い煩わないように、勧めています。自分が真になすべきことを忘れて、わき道にそれてしまうのが、思い煩いです。マルタは、イエス様の食事の接待が忙しすぎて、思い煩ってしまい、癇癪を起して、イエス様に文句をぶつけてしまいました(ルカの福音書10章38節~42節)。ですから、パウロは勧めています。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって捧げる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきいなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(6節、7節)。この最後に出てくる「守る」ということばは、「監視する」という意味です。私たちの生き方が、主のみこころからそれてしまわないように監視してくれるのです。主のみこころから、私たちをそらせてしまう「思い煩い」は、なんであっても、神様にゆだねることです。自分でもっていて良いことはひとつもありません。
8節と9節は、真に学ぶこと、受けること、聞くこと、行なうことを勧めています。神のこどもであるクリスチャンにってふさわしいことは、すべて、心に留めて実行するように勧めています。私たちは行いによって救われたのではありませんが、神の家族の一員にふさわしい生活をするように、心がけるものです。
10節~20節は、ピリピの教会の人たちから与えられた支援に対する感謝のことばを述べています。しかし、その中でも、あえて、ひとつのことを強調しています。「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。・・・あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」と述べています。たといピリピ教会からの支援がなかったとしても、不満はありませんでした。しかし、ピリピの教会の人たちが、遠く離れている自分のことを祈り、心にかけて、経済的な困難をも分かち合ってくれたことについては、心から感謝のことばを述べています。そして、主の祝福があるように、祈っています。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たし下さいます。」人の必要のために捧げる人は、神から栄誉をうけるだけでなく、経済的にも祝福されるのです。
21節~23節は結びの挨拶です。私と一緒にいる兄弟たち、そして、聖徒たち全員、さらに、カイザルの家に属する者たちが、ピリピの教会の人たちによろしく、と言っているのです。地理的に離れていても、ひとつの神の家族の一員なのです。最後に、祝祷で閉じています。
ところで、「どんな時も、主は私の力です」というのが、今年の西多賀教会の標語ですが、今日の13節の「私は、私を強くして下さる方によって、どんなことでもできるのです」というパウロの信仰の告白に相通ずるところがあります。きょうも、「どんな時も、主は私の力です」と告白しながら、1日を過ごしましょう。
清宣教師