寒波の中にあるようですが、皆様の健康が守られますように、お祈りいたします。
さて、エペソ人への手紙でもそうでしたが、コロサイ人への手紙にも、「奥義」ということばが出てきます。「奥義」ということばで表現されているように、文字どおり、これは奥義であって、誰にでも容易に理解できるという性質のものではありません。極めつくすことが出来ない深い性質をもっているものです。2章2節には、「神の奥義であるキリストを真に知るようなるためです」と記されています。1章27節では、「この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と記されていました。神の奥義は、人間の知識や知恵で理解できる性質のものではなく、主の御霊によってのみ、知ることができる性質のものです。このような個所を1日1章で解説しようとしても、解説できないです。限界です。各自、今まで主から与えられている知恵と御霊の導きで受け取る以外にありません。ただ、この1日1章は、少しでも、皆様の理解の助けとなることを願って記しております。
パウロは、コロサイの教会の人たちが、まことしやかな議論(2章4節)に欺かれないように警告しています。そして、キリストにある歩みをするように勧めています。つまり、キリストに根ざし、建てられ、教えられた通り信仰を堅くすることです。
むなしい騙しごとの哲学が、教会の中に入ってきておりました。それは人間的には魅力的な教えでした。この世の合理的な考えに基づいた分り易い神学だったかも知れません。しかし、人間的な理解よりも、キリストのうちにあることが重要なのです。偽教師の中には、肉による割礼を主張する人たちもいました。しかし、人の手に拠らないキリストにある割礼こそ、真の奥義なのです。それは、バプテスマにより、キリストと共に葬られ、肉のからだを脱ぎ捨て、キリストと共によみがえらされたという事実を受け取る事なのです。
旧約聖書の律法の中には、食べ物の規定、祭りや安息日の規定などがあります。しかし、それについて、あれこれ、批評されるような立場にはないのです。それは、旧約聖書における型、のちに成就すべき事柄の影なのです。その影が示している本体はキリストなのです。キリストを知っているなら、もはや、影のことで、あれこれ、批評される立場にはいないのです。影ではなく、本体であるキリストをさらに深く知ることが重要なのです。
一方で、謙遜を強調したり、あるいは、幻をみたり、御使い礼拝を強調したりする人たちがいますが、彼らはみな、自分自身の行いに焦点をあてています。つまり、結局は、自分を良く見せたいのです。誇りたいのです。その結果、教会という共同体の頭であるキリストに結びつくことをしないのです。自分自身に結び付けたいのです。彼らは偽物です。
あるいは、禁欲や肉体の苦行や難行を強調する人たちがいますが、それは人間的なパフォーマンスであって、内なる肉の欲房に対しては無力です。彼らもまた偽物です。キリストと共に、葬られ、古い人を脱ぎ捨てること、キリストの恵みのみわざに頼る以外にないのです。
そして、具体的に、3章において、ひとつひとつ、詳しく説明がなされています。3章と4章はお休みですが、3章と4章は、ぜひ、ことばに出して読んでみて下さい。パウロを通して、主は私たちに何を求めておられるのか、よくわかる個所です。私自身にとって、大好きな聖句がたくさんある個所です。
主がみなさん、ひとりひとりを愛されておられること、そして、ひとりひとりの成長を願っておられること、それは確かなことです。
清宣教師