きょうは、良い天気ですね。今朝、出勤する前に、なんとなく、三神峯公園に行って見たいという気持ちになりました。これは主の導きでした。いつものように、祈りつつ、歩いていると、カタカタという微かな音が頭上から聞こえてきました。樹を見上げて、その場に、4,5分ほど、ジッと、立っていると、発見しました。梢の近くに一羽の鳥がいます。そうです。キツツキでした。創造論セミナーでは何回か話題として紹介していますが、生まれて初めて見ました。しかも、三神峯公園で見るとは驚きでした。主に感謝します。
さて、テサロニケ人への手紙に入りました。テサロニケは、エーゲ海のアジア州の対岸にあるマケドニヤ州の州都でした。現在のギリシャの一部です。第1の手紙は、紀元後50年―51年ごろに、コリントに滞在していた時に書かれた手紙です。マケドニヤの中心地であるテサロニケから、ギリシャ全土へと福音が伝わって行きました。パウロがテサロニケで伝度を開始したのは、第2回伝道旅行の時でした。パウロは、シラス(テサロニケ人への手紙では、シルワノという名前で記されています)と共に、母教会のアンテオケ教会を出発して、途中ルステラでテモテが加わり、トロアスの到着しました。そこで、マケドニヤ宣教の幻を与えられて、エーゲ海を渡り、ピリピで宣教しました。ピリピでの投獄のあと、アムピポリス、アポロニヤを経て、テサロニケに到着しました。そこで、使徒の働き17章に記されているように、3度の安息日にわたり、伝道しました。3週間以上、そこに滞在したようで、幾人かのユダヤ人、神を敬う多数のギリシャ人と有力な婦人たちが回心しました。しかし、ユダヤ人たちの妬みにより、暴動が起こり、テサロニケを脱出して、ベレヤへ向かいました。しかし、パウロたちに反対するユダヤ人たちは、ベレヤにも押しかけてきたので、パウロは、アテネに退きました。
このようにして、テサロニケでの伝道が中断されたので、パウロは、テサロニケの教会のことを心配して、何度か再訪しようとしましたが、実現できませんでした。そこで、心配のあまり、アテネにいた同労者のテモテをテサロニケへ遣わしました。そして、おそらく、パウロはコリントでテモテからの報告を受けたようです。テサロニケのクリスチャンたちは、激しい迫害にもかかわらず、堅く信仰を保っているとの喜ばしい報告でした。しかし、一部、主の再臨に関する教えの誤った理解、それに道徳面での混乱などがあることが分りました。そこで、パウロは、テサロニケの教会が抱えている問題について、手紙を書くことにしました。それが、このテサロニケ人への第1の手紙です。
1章1節の挨拶では、他の教会への手紙では、パウロの使徒職に意義を唱える人たちが多くいたりして、神からの召しとなって使徒となったことを強調する自己紹介がありましたが、ここでは、そのような必要はなく、単に、パウロ、シルワノ(シラス)、テモテからと差出人の名前を記しています。この3名は、前述しましたが、テサロニケの教会の創立者でした。シルワノ(シラス)は、パウロの同行者であり、エルサレム出身の預言者でした(使徒の働き15章22節、32節、17章1節―15節参照)。2節―4節は、感謝のことば。テサロニケの教会の人たちは、「信仰の働き」、「愛の労苦」、「望みの忍耐」を実践している人たちでした。5節―7節は、テサロニケの教会の人たちは、パウロが伝える力と聖霊と強い確信に満ちた福音を、聖霊による喜びをもって受け留めました。その結果、パウロや主にならう者となり、その信仰は、マケドニヤ州とアカヤ州のすべての信仰者の模範となるものでした。8節―10節、こうして、テサロニケの教会の人たちの信仰に生きる証しは、マケドニヤやアカヤ州に留まらず。福音が宣べ伝えられている先々に伝わって行ったのです。彼らは、偶像からきっぱりと縁をきったのです。生ける真の神に仕えるという実際のクリスチャンとしての生き方を証ししたのです。そして、御子イエスが、天から来られる再臨を待ち望む生活をしていたのです。これは人から人へと伝わり、大きな信仰のうねりとなって伝わって行ったのです。
きょうの聖書箇所から、「信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐」という信仰生活の奥義を学びましたね。つまり、信仰は働きという実を結び、愛は労苦という実を結び、望みは忍耐という実を結ぶことを教えられました。それから、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れる時、主にならうものとなるという実を結ぶこと、偶像から神に立ち返る時、生けるまことの神に仕えるという実を結ぶことなどです。多くの実を結ばせてくださる主に感謝します。どんなときも、主は私の力です。
清宣教師