パウロはマケドニヤ州のテサロニケの町を去った後、南隣のアカヤ州のアテネに行き、同行者のシルワノ(シラス)とテモテがあとからやってくるのを待ちました。パウロがテサロニケの町を去った後、テサロニケの教会の人たちはどうなったのか、とても、気がかりでした。そして、テモテたちは、テサロニケの教会の人たちが激しい迫害と艱難にある様子を報告しました。それを聞いたパウロはいてもたってもいられません。
1節―5節:「そこで、私たちはもはや我慢できなくなり、・・」(1節)と記しています。また、「私も、あれ以上は我慢できず・・」(5節)と記しています。パウロ自身はおそらく、テサロニケの当局から目をつけられていたので町に入ることが出来なかったと思われます。それで、テモテをテサロニケの教会に遣わすことにしたのです(2節)。テサロニケの教会の人たちには、パウロはあらかじめ、苦難に会うことが定められているので覚悟しておくように言っておりました(4節)。しかし、実際に苦難が来ると、中にはサタンの誘いの中で、動揺してしまう人たちがいるのも現実です。パウロは、それを良く知っていましたから、自分自身でなんとか、テサロニケの教会の人たちを励ましたかったのです。しかし、それが出来ないので、愛弟子のテモテを遣わしたのです。
6節―10節:それから、しばらくして、パウロがアカヤ州のコリントの町にいたとき、テモテがパウロのもとに来て、その後のテサロニケの教会の様子を知らせてくれました。それは、良い知らせであり、テサロニケの教会の人たちは、堅く信仰に立っているという報告でした(6節)。そこで、パウロたちは、とても大きな喜びを与えられました(7節)。それはそれは大きな慰めでした。心配が大きかっただけに、その喜びと感謝も大きかったのでした(8節、9節)。パウロはテサロニケの教会の人たちに会うことが出来るように、昼も夜も熱心に祈っていました(10節)。
11節―13節:試練に会うことは危機をもたらしますが、最大の危機は試練を乗り越えた直後に襲う場合が多いのです。パウロは、そのことを知っているので、3つのことを祈っています。ひとつは、テサロニケの教会の人たちに会うことが出来るように、ふたつめは、人々の愛が増し加わるように、3つめは、キリストの再臨に備えて、聖く責められることのない歩みが出来るように、という祈りでした。激しい苦難を乗り越えた聖徒たちが、信仰が弱い者を裁いたり、あるいは自分の信仰を誇って高慢になったりする恐れがありました。それで、パウロは、テサロニケの兄弟姉妹に対して、なお一層、キリストの再臨に備えて、互いに愛し合い、互いに聖さをもとめるべきことを強調しています。
今日の個所は、ある意味、私にとっても、思い出のある個所です。今から30数年前、ふたりめの子が与えられた時、男子でした。それで、どういう名前をつけるか、思案していた時、このテサロニケ人への手紙、第1、3章8節の「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。」というところから、私たち夫婦にとっての生きがいは、主にあって堅く立ってくれることである、ということを示すために、この箇所から「堅」という名前にすることを決断したのです。御存じ、堅先生の名前の由来でした。
清宣教師