第2章に入りました。2章では教会生活の実際について、ひとつひとつ取り上げています。
まず、礼拝や祈り会など、公的な集まりでの祈りのあり方、それから、男性のありかた、ついで、女性のあり方について述べています。
1節―4節では、教会の公けの集会では、すべての人のために祈るように勧めています。その中でも、とくに、為政者のために祈るように勧めています。今朝の西多賀教会の祈祷会でも、はじめに、安倍首相、村井宮城県知事、奥山市長、それに東京都の小池知事のために祈りました。もちろん、知事や市長だけでなく、最高裁判所の判事たち、国会議員、それに、地方の判事や議員たち、さらに、経済界、教育界、その他、いろいろな分野でのリーダーたちのために祈ることが含まれます。また、天皇や天皇家のひとたちのために祈ることも含まれます。じつは、為政者のために祈ることは、それが良きものとなって、私たちに返って来るからです。つまり、「私たちが敬虔に威厳をもって、平安で静かな一生を過ごす」ことが出来るようになるのです(2章2節)。そして、「神のみこころは、すべての人が救われて真理を知るようになる」ことです。その全ての人の中には王や高官たちも含まれているからです。
5節―7節では、救いに関する神のみこころについて記しています。福音の核心は、「排他性」と「普遍性」のふたつから成り立っています。「神は唯一です」とか「神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです」と述べています。つまり、ここに、キリスト・イエス以外のものをすべて排除する排他性があります。キリスト・イエス以外には、救いはないのです。しかし、もう一面があります。それは救いの普遍性です。つまり、「キリストは、すべての人の贖いの代価として。ご自身をお与えになりました。」という事実です。この救いは、すべての人に提供されています。キリストの救いには、この排他性と普遍性のふたつの面が含まれていることを忘れないようにしましょう。
8節―15節では、男は男らしく、女は女らしく生きることについて記されています。クリスチャンの男子については、「男は怒ったり言い争ったりすることなく、どこまでもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」(6節)と記されています。人の怒り(たとい義憤であっても)は、神の義を実現するものではありません(ヤコブの手紙、1章20節)。祈りというと、女性のイメージがありますが、聖書では男性こそ、どこででも、熱心に、祈るように言われています。女性については、どうしても、外見的な身を飾ることに心を用いがちですが、ここでは、外側ではなく、内側の心の飾りを大切にすること(ペテロの手紙第1、3章4節)、また、良い行いというものを自分の飾りとするように勧められています。おしゃべりが過ぎないように、静かにすべき時には、静かにすることも大切です。慎み深く、信仰と愛と聖さを保つなら、クリスチャン女性は、子を産むことにより、女性しか味わえない幸せを見出すのです。
清宣教師