今朝、起きる前に、夢というか、心にある光景が浮かびました。それは、信仰や希望や義や愛という兄弟たちが会話しているような光景でした。それはひとつの家族であり、わたしはその中で、兄弟たちの何気ない日常会話の中で、平和な気持ちを与えられました。そして、きょうの個所の2章22節に、「義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」を読んだとき、それぞれ人格があるという印象を与えられました。義も信仰も愛も平和もみな、人格と離れては存在しないのではないかと思わされました。抽象的な概念ではなく、それぞれ、ある人格と結びついて表現されることに気付きました。それは女性であったり、男性であったり、その現われ方も、多種多様な草花のように、多種多様な人格の表れであることに気付きました。そのような家族の中で生きるのが、教会であり、何気ない会話の中にも平和を覚えるような雰囲気なのだろうと思いました。それぞれの兄弟姉妹が、義や信仰や愛や平和や聖さや希望や忍耐や忠実などなど、各自の御霊の実を表現する交わりこそ、教会の交わりの世界なのだろうと想いました。
さて、今日の個所は健全な働き人とはどのような人であるのか、をテーマにして記されているようです。ある人は、これを7枚の絵にして表していると言っています。①管理人として(1、2節)、つまり、イエス様から受けた恵みや福音を忠実に管理するひとです。②兵士として(3,4,8-13節)、つまり、日常の生活のことに関わるよりも、訓練に耐え、兵役に専念し、上官としてのイエスの戦士であることを意識して、任務を果たすひとです。③競技選手として(5節)、規定(ルール)に従って勝利を得るひとです。④農夫として(6,7節)、種蒔きの労苦、作物を育てる労苦をいとわず、収穫にあずかる喜びを覚えて、与えられた仕事を果たす人です。⑤働き人として(14節―18節)、熟練した者として、真理をまっすぐに解き明かす人です。⑥器として(19-22節)、教会は大きな家のようであり、さまざまな用途に用いられる器として自分自身を聖く保つ人です。⑦しもべとして(23節―26節)、主のしもべであるということを自覚して、すべての人に優しく、柔和な心で教える人です。
最後に一言ですが、パウロは「私は福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。」(2章9、10節)と言っています。今の時代がどのように変わるか分りません。どこにおいても、淡々としてこのように言える働き人になることが出来ますように。「どんなときも、主は私の力です」アーメン
清宣教師