きょうの個所は、「メルキゼデク」という人物についての知識が必要です。メルキゼデクとは、創世記14章18節~20節に登場する人物です。旧約聖書の中で、創世記以外の個所で、メルキゼデクという名前が登場するのは、ずっと後の時代、ダビデの預言の中でだけです(詩篇110篇4節)。皆さん、御存じのように、聖書の中で、創世記~申命記は、「モーセ5書」と呼ばれれていて、別名、「律法の書」とも呼ばれています。その中で、幕屋の制度があり、祭司職の制度が詳しく述べられています。その祭司とは、レビ族のアロンの直系のひとたちでした。その人たちの中から、大祭司が選ばれました。これが、イスラエルの神の民として、神との契約の中で、約2000年にわたって守られてきたことでした。ところが、へブル人への手紙の著者は、ここで、ダビデの預言(詩篇110篇4節)を引用して、メルキゼデクに等しい大祭司としてのイエスの職務を指摘しています(へブル人への手紙、6章20節)。
従来の律法の中で遵守されてきたレビ系の祭司職ではなく、つまり従来の律法とは別に定められた、メルキゼデクの位に等しい大祭司としての、まったく新しい祭司職が立てられたというのです。創世記のメルキゼデクの記事を読むと、父の名も、母の名も記されておらず、系図も記されていません(へブル人への手紙7章3節で指摘されています)。それなのに、サレムの王(訳すと、平和の王)として、メルキゼデク(訳すと、義の王)として、アブラハムから10分の1の捧げ物を受け取っています。そして、アブラハムを祝福しています。律法には記載されていないメルキゼデクという祭司が、イスラエルの父祖であるアブラハムを祝福しているのです。祝福する者は、上位のものです。メルキゼデクは、イスラエルの父祖であるアブラハムよりも上位のものということになります。また、ユダヤ的な考えによれば、アブラハムの子孫のレビは、いわば、アブラハムの腰の中にいたということで、レビとその子孫の祭司たちもみな、アブラハムを通して、メルキゼデクに捧げ物をしたことになり、また、メルキゼデクの祝福に与ったことになります。というわけで、従来のモーセの律法による祭司職ではなく、まったく別の祭司職としてのメルキゼデクの位に等しい大祭司として、イエスが任命されたというのです(へブル人への手紙6章20節、7章15節)。この祭司は、肉によるレビ系の直系の子孫という規定によって立てられた者ではなく、神の御子としての、朽ちることのない、いのちの力をもって、祭司となられたのです(へブル人への手紙7章16節)。つまり、従来の律法によっては、ひとは罪のもとに定められただけであって、ひとを救うことが出来ず、弱く無益なために廃止されたのです(7章18節)。しかし、キリストはメルキゼデクの位に等しい大祭司として、「とこしえの祭司」(7章21節)として、私たちの執り成しをして下さるのです。そして、ご自分によって、神に近づく人々を完全に救うことがおできになるのです(7章25節)。キリストは、ご自分を全人類の代価としてご自分のいのちを捧げて、私たちを救い、いつも生きていて、私たちのために執り成していてくださるのです(7章25節)。もはや、罪のためのいけにえは、毎日、捧げる必要ななくなったのです。ただ一度、神の御子が完全な贖いを成し遂げて下さったからです。キリストは今、私たちのために父なる神の御前で、執り成してくださっておられます。大胆に、家族の救いのために、そして、この地域の救いのため、日本の救いのために祈り続けましょう。
清宣教師