昨日の7章では、メルキゼデクの位に等しい大祭司としてのイエス・キリストの卓越性が示されました。この8章では、その大祭司の活動の場、その働きの性質について述べています。キリストは天におられる大能者の御座の右に着座された方です。そして、人間が設けたのではなく、主が設けられた真実の幕屋である天の聖所で仕えておられるのです(8章1節、2節)。そして、アロン系の大祭司の場合は、この地上で、何度も、何度も、捧げ物をしますが、メルキゼデクの位に等しい大祭司であるイエスは、ただ一度かぎりの捧げ物をもって成就されました(8章3節、9章12節参照)。
8章5節では、私たちが聖書を読む場合に、ヒントとなることが示されています。それは「写し」、「影」、「型」といわれるものと、「本体」との対象です。旧約聖書に示されている幕屋は、モーセがシナイ山で示された天の真の幕屋(本体)の写しであり、影であり、型でした。つまり、大祭司メルキゼデクは、永遠の大祭司キリストの型です。また、モーセの幕屋は、天にある聖所の型です。大祭司が年にただ一度だけ、至聖所に入って贖いをするのは、キリストが天に入って永遠の贖いをまっとうされる型であるというのです。
さて、7節には、「契約」ということばが出てきます。聖書ではとても重要なことばです。じつは、日本語で、「契約」と訳していますが、ヘブル語には、2種類のことばがあります。ひとつは、「スンセーケー」、もうひとつは、「ディアセーケー」ということばです。「スンセーケー」は、結婚の約束とか、国と国との間で締結する条約を意味します。「ディアセーケー」は、ふつう、遺言状のことを意味します。つまり、「スンセーケー」は、両者の間で対等な立場での話し合いで決めるものです。「ディアセーケー」は、一方的な責任で作りだされるものです。へブル人への手紙に出てくる神の契約とは、「ディアセーケー」(遺言)ということばであり、神の一方的な責任でなされるものであり、神の一方的な恵みによって与えられる約束です。それが、「新しい契約」です。シナイ山で結ばれた契約(シナイ契約)は、双方の合意のもとで結ばれたものですが、結局は、イスラエルの民によって、何度も何度も破られました。もはや意味をなさないものとなっておりました。しかし、神は、新しい契約を恵みによって備えて下さいました(8章8節~10節)。それは、石の板に書かれた十戒とは違い、信じる者の心に刻んでくださるというのです。キリストを信じる者は、聖霊を受けて、新しく生まれ変わります。そのとき、その心に、新しい神の律法が刻まれるというのです。新しい契約には5つの特質があります。(1)真の和解をもたらす(8節)。(2)守る力を与える(10節)。(3)すべての人に開かれている(11節)。(4)罪の赦しを与える(12節)。(5)神が保証したもの。つまり、8節~12節において、すべての約束は「わたしは・・・」というものであり、神の保証の中にあることが分ります。
きょうは、美田園おはなかふぇです。主の霊が、一人一人の心に働いて救いへと導いて下さいますように、お祈りください。
清宣教師