「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです」(1節)。これは、信仰の定義ではありません。信仰の働きの本質を見事に表したことばです。第1に、信仰は待ち望んでいる者に対して必ずそれを得るという確信を与えます。つまり、未来に起こる出来事を現実のものとして生きることを可能にするのです。「保証」ということばですが、このギリシャ語の原語の意味は、「基盤」というものです。つまり、確かな基盤です。それは神のみことばですね。第2に、信仰は、肉眼では見えないものを霊の眼をもって、その隠された事がらを把握する力を与えます。
さて、最初の4節~7節では、アベル、エノク、ノアの三人の義人の信仰の生涯が取り上げられています。彼らの生涯の中に、信仰のありかたを見ることが出来ます。読む速度を落として、じっくり、味わいながら、読んでみましょう。
そして、8節~12節では、信仰の父と呼ばれているアブラハムの信仰の生涯が紹介されています。アブラハムの信仰者としての人生の中で示されているいことは、まず、「神様からの召し」→「従順な応答」→「相続の約束」→「相続を受け取るために実行」というパターンです。そして、実際に、アブラハムの死後、数十世代を経て、数えきれないほどの子孫に恵まれました。
13節~16節では、信仰の父祖たちに共通する信仰の特色をまとめています。彼らは、約束のものを手に入れていたわけではありませんが、信仰によって約束を信じ続け、喜びの生涯をおくりました。そして、この地上では旅人であり、寄留者であることを覚えており、天の故郷こそ、彼らのまことの故郷であることを証し続けました。
17節~22節では、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの生涯に見られるキリストの型について述べています。彼らは、死に打ち勝つ復活の信仰をもっていました。
23節~29節では、モーセと民たちの信仰の歩みについて述べています。モーセは、パロの娘の子であることよりも、神の器となることを選び取りました。そして、すべての苦難を忍び通しました。こうして、モーセは、イスラエルの民を出エジプトさせました。彼らは乾いた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。(29節)。
30節~31節では、イスラエルの民が約束の地に入ったのちの出来事です。そこには異邦人のひとりの女性が描かれています。彼女は、信仰によっていのちを得ました。
32節では、旧約聖書に登場する信仰の勇士たちの名前を列挙しています。ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、そのほかの預言者たちです。そして、33節以降、無名の信仰の勇士たちについて述べています。彼らは信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、・・・戦いの勇士となりました。ある人たちは、殉教の死を遂げました。死んだ者をよみがえらせていただいた人もいます。また、復活の希望のゆえに、あえて、死に甘んじた人もいました。拷問、嘲り、鞭、鎖、牢獄、石打ち、ライオンの餌食とされ・・・、この世は彼らにふさわしいところではなく、荒野と洞穴などをさまよう人生を余儀なくされました。彼らは皆、信仰の証しの人生を歩み抜きました。しかし、約束されたものを地上で受け取ることはありませんでした。しかし、さらにすぐれた神の報いが、あらかじめ、天に用意されていたのです。彼らの地上での労苦と証しの人生は、天において、幾万倍にも報われたのです。
そこで、へブル人への手紙の著者は、言います。このように多くの証人たちが、雲のよう私たちを取り巻いているのですから、忍耐をもって、目標を目指して走り続けましょう。そのためにも、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(12章1節~2節)。
清宣教師