第1章では、ペテロは、主を知る知識の重要性を指摘しましたが、第2章に入ると、偽預言者や偽教師たちのことが取り上げられています。それは、主を知る知識を否定する最大の危機は、偽預言者や偽教師たちによって、教会の中に持ち込まれるからです。
2章1節~3節の前半では、旧約聖書の中にも、昔から多くの偽預言者たちが登場しており、主イエスも、偽預言者の出現について予告しておられました。そして、いま、教会の中に偽教師たちが現われて、真理の道から偽りの道へと誘惑しているのです。作り話をもって好色や貪欲に、たくみに誘惑して、主を知る知識から遠ざけようとしているのです。
3節後半~10節前半では、真の知識を否定する者たちへの裁きと義を宣べ伝える者への救いが記されています。罪を犯した天使たちは地獄に閉じ込められました。また、ノアの時代の人々はその不義のゆえに全世界的な洪水により滅ぼされました。一方、ノアと3人の息子、それにその妻たちの合計8人は、箱船によって救われました。ソドムの町の人たちも不義のゆえに、火をもって滅ぼされました。しかし、義人ロトは、救い出されました。「これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、裁きの火まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」(9節)。だから、いま、汚れた情欲をもやし、肉に従って歩み、権威をあなどる偽教師たちも、神の裁きに定められているのです(10節)。
10節後半~16節までは、偽教師たちの特徴があげられています。彼らは、大胆不敵で、尊大な者たちです(10節、11節)。また、動物のように悟りがないのです(12節)。快楽至上主義者であり、聖徒たちの食事会でも、飲んで騒ぎ、欲望に満ちています(13節、14節)。また、かつての偽預言者バラムのように金銭を愛する者たちです(15節、16節)。
17節~22節は、知識を否定する偽預言者や偽教師たちの本質を総括しています。まず、「水のない泉」、「突風に吹き払われる霧」に例えられています。つまり、外観だけを繕い、中身がないということです(17節)。彼らは大言壮語を吐いているが、じつは誤った生き方をしており、人々に自由を約束しておきながら、じつは肉欲と好色に誘惑して、人々を滅びの中へと道ずれにしているのです(18節、19節)。その結果、主イエス・キリストを知ることにより義とされたクリスチャンたちが、再び肉欲と好色の世の奴隷になるなら、その裁きはもっと厳しいものになります(20節)。義の道を知っていながら聖なる義の教えに背くくらいなら、初めから義の教えを知らない方が、彼らには良かったのです(21節)。彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る」とか「豚は身を洗って、また泥の中に転がる」という、ことわざの通りなのです。
当時のキリスト教会の中にも、禁欲主義やその正反対の快楽主義の影響が、偽教師たちによって忍び込んできていたのです。それは、当時のこととして済ませるのではなく、その後も、ずっと、教会は、さまざまな世の価値観や世界観や人生観に影響されてきました。それらの教えと戦わなくてはならないのに妥協してきたという歴史があるのです。その中で、今の私たちにとって最も大きな影響を与えている偽りの教えは、人間中心主義、その土台となっている進化論の教えです。それ以外にも、いろいろな異教の教えが持ち込まれてしまいました。いまは、それらのものを排除して、主を知る真の知識の中に戻り、この地を治める責任を果たし、主のご性質にあずかるものとなることが求められています。教会は、主のみこころを行う、御国のこどもたちが集うところです。
清宣教師