21章に入ると、以前の天と以前の地は消え去り、新しい天と新しい地とが現われました。そこには海はありませんでした。ヨハネは、そこで、聖なる都エルサレムが天から下って来るのを見ました。それはあたかも夫を迎える花嫁のように飾られていました。夫はキリスト、花嫁は教会のことを指しています。御座から大きな声がして、聖徒たちに対して、「神の幕屋が人とともにある。・・・もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しもない。」と、神ご自身からの永遠の慰めのことばが語られました。また、「見よ。わたしは、すべてを新しくする」という完全な回復の約束の宣言がなされました。そのあと、10節で、御霊は、ヨハネを、大きな高い山に連れて行きました。そこで、聖なる都エルサレムが神のもとを出て天から下ってくる様子を見せられました。聖なる都には12の門がありました。聖書の中では、「12」という数字は、選ばれたものの数字を表していmさう。イスラエルの12部族、イエス様の12人の弟子たち、12×12で、144となります。ここでは、選ばれた者たちのための聖なる都であることを指しています。都は立方体であり、その一辺は、1万2千スタディオンである。およそ、2220km(北海道から九州くらいまでの距離)です。144ペーキュスとは、約64.8mです。立方体の都の真ん中に、神の御座があります。ここに出てくる宝石は、かつて大祭司の胸のエポデにしっかりとつけられていた宝石と同じです。12の門は真珠で出来ており、都の大通りは、純金でした。ここには神殿はなく、神と子羊ご自身が神殿でした。父なる神と御子イエスの栄光がすべてを照らす光であり、暗やみは存在しません。神の栄光は、21章11節に記されていますが、その輝きは高価な宝石に「似ており」とか、透き通った碧玉の「ようで」あったと記されています。高価な宝石そのものでもなく、碧玉そのものでもありません。神の栄光を強いて表現すると、この地上での最も高価な宝石のような輝きに見えたということを表しています。つまり、どんなものをもってしても、神の栄光を表現することは難しいのです。
私たちも、やがて、主の回復の時が来ると、本物の栄光を見ることになります。私たちの国籍は天にあります。天の御国には、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。その幸いに、私たちもあずかれるのです。
清宣教師