きょうの個所は、最初から最後まで、「主」と記されています。つまり、そこには、YHWHの聖なるお名前が記されているということです。
一般の神々の中のひとりの神ではなく、天と地を創造され、アダムとエバにいのちを与えられたお方、そのお方を知って礼拝しているのです。私たちにとって、アメリカの大統領と言えば、知識で知っているだけです。でも、トランプ大統領の家族、とくに、こどもたちは、大統領としてだけでなく、父親として良く知っています。それは知識としてではなく実際に家族の一員として知っているのです。
アダムとエバの家族にとって、神様は単なる知識としてではなく、「主」というお名前として良く知っていたのです。家族で礼拝していたのです。
それなのに、なぜ、このようなことが起こるのか、まったく、想像も出来ないことでした。アダムとエバの二人の息子、カインとアベルが主を礼拝したあとで、殺人事件が起きたのです。兄であるカインが、弟アベルを殺したのです。しかも、礼拝において主がアベルとその捧げものとに目を留められましたが、カインとその捧げものには目を留められなかったという理由でした。
このことは、私たちにとって衝撃的な出来事です。唯一の神様を礼拝しているなら、間違いを犯すはずがない。その人の人生は祝福されるはず。しかし、違ったのです。神様を個人的に良く知っていれば、間違いを犯すはずがない。その人の人生は祝福されるはず。それなのに、殺人が起こったのです。まことの神様を礼拝したあとのことです。私たちクリスチャンの両親にとって、これは、見過ごすことが出来ない大事件です。
礼拝に出席していればよい。唯一の神様を知っていればよい。・・・ということではないことを示しているように思われます。主を礼拝しているのに、殺意が起こっているのです。礼拝する時に、自我があるなら、礼拝したとしても容易に弟を殺す結果になることもあるということを示しています。自分の奉仕(礼拝)が否定されたという思いは、自分の心をひどく傷つけ、ものすごい怒り(5節)となりました。
これはカインの心に起こった特殊なケースではなく、もし、私たちが警戒しなければ、日常的に起こることがらです。ご存じのように、パリサイ人たちも、主を礼拝していましたが、イエス様を無実の罪で十字架につけました。それは、妬みのゆえでした。主を礼拝する者であっても、自分の心を傷つけられると、ものすごい怒りに変わります。人間のプライド(誇り)を温存するなら、容易に人を裁き、仕返しするものとなります。
私たちは、礼拝に参加する時、無防備であってはならないことを示しています。自分自身のために、家族のために、真の礼拝をすることが出来るように祈る必要があります。神の国と神の義を第1とすることです。自分を第1とするなら、つまり、自分を正しいとするなら、礼拝そのものが、人を「裁く」(イエス様のことばによれば、「殺す」ことにさえ、結びついてしまうのです。一方、自分を正しいとすることとは一見、正反対のように見えますが、非常に危険な誘惑があります。それは、自分がひどく傷つけられたという思いを容認することです。実は、これも自分を第1とすることです。自分が傷つけられたという思いは、蟻地獄のように、自己中心へと引きずり込みます。その結果、その人は、霊的に盲目となり、すべてのことを自己中心の目でみることになります。
創世記4章は、カインの例を通して、主を礼拝することが、魔法のように人を変えるのではなく、その人の心のあり方が、礼拝を通して現われることを示しているように思います。ですから、霊と真とをもって礼拝することが求められています(ヨハネ4章24節)。自分自身のために、家族のために、霊と真とをもって礼拝できるようにお祈りしましょう。無防備であってはなりません。自分を第1とする罠から逃れなければなりません。
私たちは神のかたちに造られました。きょうも、自我を葬り去る訓練に合格しましょう。
清宣教師