昨日の2章では「ティグリス」とか「ユーフラテス」といった地名が出てきました。これらの地名を現在も残るものとして「エデン」は中東のどこかにあったと考える人がいます。しかし、創世記2章に登場する地名は、ノアの時代の世界的な大洪水で、ことごとく崩壊しました。これらの地名は、ノアの子孫たちが、新しい陸地で増え拡がった時に、自分たちが居住する地域に、かつての懐かしい地名をつけたものであって、創世記の2章に登場する地名とは名前は同じでも、場所は違います。
さて、きょうの3章も、2章に続いて、1節において「神である主」と記しています。しかし、1節の後半から~7節までのヘビ(サタン)は、女との会話の中で「神」という名称を用いています。そのあと、8節~23節において、「神である主」となっております。「神」とはもろもろの神々をも含む一般名詞です。それに対して、「主」(そこにはYHWHという唯一の神の御名が記されています)は、全宇宙に唯一の存在である創造主なる神を指しています。旧約聖書に出てくるYHWHの御名を、ある人は、「エホバ」と音読しましたが、それは、明らかに間違いであるとされています。では、ただしい読み方はというと、「ヤハウェ」が有力ですが、確定はされていません。なお、「エホバ」は異端とされている「エホバの証人」が用いているので、これを用いない教会が多いようです。しかし、前述のように、「エホバ」という発音は、まったくの誤りです。詳しいことを省きますが、なぜ、誤ったかという経緯が学者の間で明らかにされています。
ところで、旧約聖書に記されている「エホバ」とか「ヤハウェ」という神の御名は、父なる神の御名でしょうか?それとも、御子の御名でしょうか。カトリック教会が東西に分裂して後、西方教会(ローマカトリック)では、父なる神の御名と解釈しました。一方、東方教会では、御子なる神の御名であると解釈しました。プロテスタントは、ローマカトリックから分れたので、父なる神の御名と解釈するところが多いようです。
ただし、天地万物をみことばによって創造されたお方、人間をご自分の姿に似せて創造されたお方、エデンの園を歩き回られるお方、・・・と考えると、御子イエス様と解釈するのが妥当のように思われます。この辺のことは、あとで、また、取り上げたいと思います。
さて、エバは、蛇(サタンに操られている)のことばに騙されて、神のみことばを疑ってしまいました。サタンは巧妙です。アダムやエバの心の中に、神が何か、特別な大切なものを出し惜しみして与えていないかのような印象を与えるように、神に対して疑いを持つように誘導しています。真実は、すでに、アダムとエバは神の姿に似せて造られた神の子供たちだったのですが、「あたながたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなた方が神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」、また、「あなたがは決して死にません」という大嘘をついて、神の戒めである、善悪の知識の実を取って食べるように、唆しました。そして、エバは、神の戒めを破り、善悪の知識の実を取って食べ、夫のアダムにも与えました。こうして、彼らは、サタンに騙されて、裸となりました。そして、神を避けて、隠れる者となりました。神のようになるどころか、神の目を避けなければならない存在となりました。神がご自分のかたちに特別に創造された最高傑作であるアダムとエバを、神から切り離し、堕落した存在へと追いやることにサタンは成功したのです。
アダムとエバは、神の戒めを破り、反逆し、地を治めるという神のかたちを失い、この地を治めるという権利を、神の敵であるサタンの手に売り渡してしまいました。後悔しても、もとに戻すことは出来ません。しかし、神に背を向けて隠れている者に対して、御子イエス様は呼びかけて下さるのです。「あなたは、どこにいるのか」。そして、蛇に対して、裁きを宣言されました。その中で、女とサタンの間に敵意を置かれました。つまり、女は、か弱い存在ではなく、神によって、サタンの最大の敵として定められたのです。そして、その女の子孫(救い主)が、サタンの頭を踏み砕くことが、主のみことばによって宣言されたのです。これは神が語られた最初の福音(原始福音)でした。そして、神の御子イエス様の十字架の贖いと復活によって、この福音が成就しました。すべての人は罪を犯したので、神の栄光を受けることが出来ません。しかし、神の御子イエスの贖いによって、罪赦されて、神の子としての身分を回復していただいたのです。
きょう、あなたはどこにいますか? 隠れていませんか? イエス様はあなたを愛しておられます。99匹の羊を残して、1匹の羊であるあなたを探しておられるお方です(ルカの福音書15章4節~7節)。裸の恥を覆うため、皮の衣を作って下さり、着せて下さるお方です。皮の衣とは、血を流して達成される御子イエス様の貴い犠牲による義の衣のことです。あなたのために、御子イエス様は、ご自分を十字架につけて、その死を通して、ご自分の義の衣をあなたの裸にかけて、着せて下さるのです。あなたは愛されています。そして、あなたも神の子として回復されたのです。
きょうも、神の子らしく、笑顔で過ごしましょう。
清・宣教師