創世記4章で、アベルは、主への従順とまことの礼拝の姿勢を貫きました。そして、無実でありながら、同じ礼拝者である兄弟、カインの妬みにより殉教の死を遂げました。御子イエス様は、父なる神に栄光を捧げる人生を送られましたが、同国人(いわば兄弟)であるユダヤ教の指導者の妬みにより殉教の死を遂げました。そのような意味で、アベルの人生は、イエス様の人生の予型であったと考えられます。なお、4章におけるカインの妻のことで、疑問を持つ方がおられるので、解説しておきます。カインの妻は、アダムの娘でした。アダムには娘が、幾人もおりましたが、系図には載っておりません。モーセの時代以降、家族や近親の間での結婚は、遺伝上の問題により禁止されていますが、アダムとエバの時代には、家族や近親の間での結婚に関しては、遺伝上、なんら問題がなかったと思われます。その詳しい仕組みについて、どうしても聞きたい方は、私に直接、尋ねて下さい。
さて、創世記5章ですが、1節に「これはアダムの歴史の記録である」と記されています。前にも述べましたが、これは、内容的に2章4節の後半~4章の最後の26節の表題となっております。私たちの現代の表現方法では、2章5節の前に位置するものです。そういう意味では、5章1節に記されていることに違和感を覚えます。奥付であることを知らないで読むと、5章2節以降の表題として誤解されてしまいます。
ところで、日本の古代の平安時代などの巻き物をみると、巻き物は、真ん中の軸を中心に巻かれていて、一番外側に表紙をつけて、紐(ひも)で閉じられています。その外側の表紙に、その書の題名が記されています。これを外題(げだい)と言います。それから、巻き物を開くと、文章の最初に再び題名が記されています。これを内題(ないだい)と言います。そして、文章の最後に、再び、題名がしるされています。これを尾題(びだい)と言います。しかし、書物によっては、巻き物の外側に外題があるので、文章の最初の内題は省略されている場合があります。すると、巻き物の中身としては、最後の尾題だけが残ることになります。そう考えると、創世記1章1節~2章4節の巻き物、2章4節後半から5章1節までの巻き物、順次、いくつかの巻き物が続きます。それらをまとめて編集したのが創世記であるとすると、それぞれの巻き物の尾題だけが残ったと推定されます。なぜ、表題が最初ではなく、最後にあるのか、その理由がここにあるのかも知れません。
あるいは、時代により、書式というのは代わります。例えば、科学論文でも、数十年前までは、論文の内容の要約は、論文の一番最後に掲載することになっていました。しかし、ここ30年くらい前からは、論文の文頭に、抄録として掲載するようになりました。忙しい時代にあっては、最後を見るよりも、最初に抄録を見て、その論文を読むかどうかを判断するためのものになっています。このように表題を記す箇所も、時代によって変化したことも充分、考えられます。一応、表題(見出し)の位置の変遷を理解しておくと、混乱しなくてすむように思いますので、参考までに記しました。
さて、主なる神様がアダムに名前を付けました。アダマー(土)から取られたのでアダムとつけたのです。そして、祝福しました(5章2節)。名前は本質を表すものでした。アダムは祝福された存在です。しかし、土から造られた者であることを自覚している限り、その祝福が自分のものとなるのです。ところが、高慢にも、神様の所有である善悪の知識の木の実を、所有者である神様から禁じられていたにもかかわらず、あたかも自分のものであるかのように食べてしまいました。詩篇10篇18節には、「地から生まれた人間」と記されています。私たちが自分のルーツを正しく知り、創造主なる神のもとに自分を置く時、祝福されます。しかし、高ぶるなら、祝福は去ってしまいます。創造主に似せて造られた人間は、自分に似た子を産み、自分の子たちに名前を付けました(5章3節)。まさに、創造主に似たものとしての特権でした。5章4節~31節まで、長寿のリストが続きますが、これは、もともと、創造主に反逆しない限り、人間は死ぬことがないことを示唆しているように思われます。なお、5章におけるイエス様の予型は、神と共に歩んだと記されているエノクの生涯に見ることが出来るように思います。余裕のある方は、アダムからレメクまでの各自の寿命をグラフで表してみることをお勧めします。そのグラフから、一つだけでなく、いろいろな発見があると思います。アダムを頭に、大家族が存在していたことが分ります。
神様のかたちに造られた者として、きょうも、笑顔で過ごしましょう。
清宣教師