1節~5節:父アブラハムの信仰の足跡を後追いするかのように、イサクもまた、飢饉に遭遇しました。しかし、今回は、父アブラハムの時とは違って、あらかじめ、「エジプトに下ってはならない」という主からのアドバイスを受けました。しかも、この地に滞在するなら、大いに祝福するという約束をいただきました。アブラハムに対する祝福を、イサクが受け継ぐことを、主は明確に示してくださいました。
6節~11節:ところが、イサクは、父アブラハムが二度にわたって失敗したのと同じ失敗をしてしまいます。つまり、自分の妻を妻としてではなく、自分の妹として偽ってしまいました。父の弱点を子も受け継いだということになるのでしょうか。ペリシテ人の王アビメレク、という名前が出てきますが、アブラハムの時にも、アビメレクという名前がありました。アビメレクとは、「アビ・メレク」とは、「わが父・王」という称号です。歌舞伎で、何代目を襲名するということがあるように、アビメレクという称号を、歴代の王が受け継ぐのです。従って、アブラハムの時のアビメレクと、イサクの時のアビメレクでは、人物がことなります。ところで、イサクの場合も、主が介入して下さり、アビメレクにイサクとリベカが愛撫する姿を見せて、夫婦であることを悟らせました。アビメレクは、早速、イサクに問いただして、民たちが罪を犯さないように、「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される」と宣言して、イサク夫婦を守りました。
12節~16節:ペリシテの地で、イサクは、その地に種を蒔き、100倍の収穫を得ました。そして、ますます栄えて裕福になりました。これをみた、ペリシテ人たちは、イサクを妬んで、アブラハムの時代に、アブラハムのしもべたちが掘った井戸を、腹いせに、全部、土で埋めてしまい、井戸がつかえないようにしてしまいました。そして、アビメレクは、イサクたちを無理やり、その地から追い出しました。
17節~25節:イサクは、そこを去って、ゲラルの谷間に住みました。そこで、父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を再び、掘り返しました。そして、湧き水がでると、今度はゲラルの羊飼いたちが、「この水は、我々のものだ」と主張して、力づくで奪いました。そこで、イサクは争うことをせずに、別の場所に水を求めて井戸を掘りました。そこから湧き水がでると、またまた、ゲラルの羊飼いたちが、「この水は我々のものだ」と強弁して、力づくで横取りしました。それでもイサクは、争うことをせず、別の場所に水を求めて井戸を掘りました。今回は、そこに水が湧いても、ゲラルの羊飼いたちは、何も言いませんでした。その井戸の名を「レホボテ」と名づけました。「レホボテ」とは、「広々とした所」という意味です。そのあと、イサクたちは、ベエル・シェバに移りました。その夜、主がイサクに現われて、祝福と約束のことばを語られました。そこで、イサクは、主の祭壇を築き、主の御名によって祈りました。そこに天幕を張り、井戸を掘りました。
26節~33節:さて、突然、アビメレクが、友人のアフザテと将軍ピコルを連れて、イサクのもとを訪ねてきました。さすがのイサクも、「なぜ、あなたがたは私の所に来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたの所から追い出したのに。」と言ってしまいましたね。彼らは、イサクが、主によって祝福されるのを見て、恐れが生じたのです。アビメレクたちは、イサクの祝福を力で奪いました。イサクは、その都度、争うことなく譲歩しました。ですから、イサクは、経済的にも、だんだん衰退するはずでした。ところが、イサクがアビメレクたちに譲歩して、その繁栄を手放しても、手放しても、主がそれ以上に祝福されるので、ますます繁栄する姿を見て、彼らには恐れが生じたのです。そして、アビメレクの方から、平和の契約を結んでほしいと頼みに来たのです。そこで、イサクは、それを快く受け入れました。そして彼らを歓待しました。翌朝早く、ふたりは契約を結びました。その日、新しい井戸が見つかりました。イサクはその井戸を「シブア」と名づけました。「シブア」とは「7」を意味しますから、7番目の井戸だったのかも知れません。ベエル・シェバとは、以前、アブラハムが「誓い」(シャーハ)と7頭(シェバ)の雌ヤギにちなんで、ベエル・シェバと名づけたところです(創世記21章31節参照)。イサクは、父親アブラハムの井戸を再掘し、ゆかりのある井戸の名前を復活させ、その町を復興したのです。
「柔よく剛を制す」という諺があります。柔和なイサクが、争うことなく、勝利を得ました。これは私たちクリスチャンの模範でもあります。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福をあたえなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのですから。」(ペテロの手紙、第1、3章9節参照)と記されています。イサクは、主から与えられた祝福(井戸)をアビメレクやペリシテの人たちに奪われて、彼らのものとなっても、意に介しませんでした。祝福の基としての役割を果たしたのです。それゆえに、イサクはますます、主から祝福を受ける存在となったのです。
きょう、わたしたちも、御国を受け継ぐ者として、祝福の基として、気前よく、寛大に振舞いたいですね。
清宣教師