今日から第2番目の書である『出エジプト記』に入りました。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、そして申命記の5つの書を、モーセ5書と呼んでおります。一般に、モーセが編集したと考えられています。
ところで、私たちの周りの出来事は、なにごとも、いつまでも変わらないというものはありません。しかし、永遠の神のご性質だけは不変です。神の愛、真実、義、聖などなど、決して変わることがないので私たちは安心です。でも、それ以外のものはみな変わります。環境も、事情も、人の心もみな変わります。エジプトに移住したヤコブの家族を取り巻く状況も変わりました。ヨセフも死に、その兄弟たちも死に、その時代の人々はみな死にました。
そして、ヨセフのことを知らない新しい王が誕生しました。その頃、イスラエルの民はエジプトの地において、エジプト人を上回るような数となって行きました。エジプトの王は、それを知って、とても恐れました。もしかしたら、敵側について、エジプト人と戦うようになるかも知れないと考えたのです。それで、エジプトの王は、イスラエルの民を迫害しました。そして、イスラエルの民を苦役に服させ、奴隷のような過酷な労働で苦しめました。しかし、その過酷な労働の中でも、イスラエルの民は、生めよ、増えよ、地に満ちよ、という祝福の計画通り、その数を増し加えていきました。
そこで、エジプトの王は、へブル人(イスラエル人)の助産婦に対して、生まれた子が男の子なら殺し、女の子なら生かしておくように命じました。しかし、助産婦たちは、エジプトの王よりも主を恐れたので、王の命令には従わず、男の子を生かしておきました。そのことは、神を喜ばせることとなりました。神はこの助産婦たちの家を繁栄させられました。シフラとプアという二人の助産婦が命がけで選んだ勇敢な行動のゆえに、二人の名前が聖書に記されることになりました(15節)。
エジプトの王パロは、事態が自分の思うように進んでいないのを見て助産婦たちを呼びよせて詰問しました。しかし、助産婦は、神様からの知恵をいただいて、その危機を乗り越えることが出来ました。そこで、パロは、今度は自分の家来を呼び寄せて、『へブル人の生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない』と命じました。その命令は直ちに実行に移されました。そして、実際に生まれた男の子がナイルに投げ込まれて死に追いやられる事態が起きました。
このような逆境のとき、民たちはみな、祈りました。しかし、事態は変わらず、時だけが経過していきました。あの救い主イエス様の誕生の時にも、同じようなことが起こりました。ヘロデ大王がベツレヘムと近辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺したときのことです(マタイの福音書2章16節)。神の救いの計画を知るサタンは、非情な手段を用いて、神の救いの計画を阻止するために動きます。しかし、神の救いの御計画は、水面下で着々と実現していました。神の御手が見えない時こそ、最もつらい時です。そして、神の御手が見えない時こそ、私たちの信仰が試される時であり、さらにいうなら、最も信仰が成長する時です。もう一歩で、すべてのことが解決する時です(詩篇22篇参照)。
主よ、きょうも、兄弟姉妹のために祈ります。どうぞ、彼らを解放して下さい。どうぞ、彼らを癒してください。どうぞ、彼らの問題を解決して下さい。彼らの上に、生ける神のみわざを現してください。今日、主よ。私たちを覚えて、あなたのみわざを現してください。

清宣教師