今日、66巻の聖書の最初の創世記を完了します。創世記は、天地創造、そして、アダムとエバが人類の祖として創造され、祝福のうちにスタートしました。しかし、それから、何世代も、何世代も経て、人類は増え拡がり、エジプトは大帝国として栄えていました。そこで、ヤコブは息絶えて、自分の民に加えられました(49章33節)。50章1節では、「ヨセフは父の顔に取りすがって泣き、父に口づけした」と記されています。ヤコブが残した12人の息子たちこそ、のちにイスラエルの12部族となりました。今日のイスラエル国家は、このヤコブ(イスラエル)に由来しています。
ところで、49章33節の「自分の民に加えられた」という表現は独特です。アブラハム、イサク、ヤコブの子孫は、いまは70人たらず(出エジプト記1章5節参照)でしたが、神の御計画の中で、このエジプトで約400年もするうちに、200万を超える民に成長していきます。さらに、出エジプトのあと、約束の地カナンに入り、イスラエル王国が建設されていきます。それは神の約束の民でした。その約束の民の故郷は天にありました。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、「神の民に加えられた」という表現を通して、主の約束の成就の先取りをしています。私たちも、私たちの信仰の子孫たちと共に住むときが来ます。私たちの死は、天の御国において私たちの信仰の子孫たちを見ることであり、その交わりの中に入れられることです。何という不思議な神様の計画でしょう。なんという素晴らしいプレゼント、祝福でしょう!!!
話は変わりますが、最近、自分は70代ということで、10代~60代の人たちが形成する社会から浮いているように感じたことがありました。しかし、天を仰いでいると、次の瞬間、私はその社会の中で生きている、そして、10代~60代の人たちと共に生きているという実感が与えられました。とても、心が軽やかになりました。教会への道を歩いていると、街路樹の高い梢から、鳥のさえずりが聞こえてきました。若い人も、子供たちも、私も、この創造主が造られた世界で、共に生きているという喜びです。
さて、ヤコブの死に際して、エジプト全土は70日間、喪に服しました。そして、ヨセフは父ヤコブの遺言の通りに、ヤコブの遺体をカナンの地にあるマクペラの洞穴に葬りました。7日間の荘厳な葬儀でした。最近は、すべての冠婚葬祭は簡略化されて日数も短縮されていますが、いかにも忙しい人生の中での一コマのようです。現代の特徴といえばそれまでですが、人間関係が薄れていく要因のひとつとなっていると思われます。それだけに、毎週、教会で共に礼拝し、共に交わることは、主の祝福のひとつであると思います。
さて、兄弟たちは、父ヤコブが死んだので、ヨセフが復讐するのではないかと恐れました。17年間の生活の中でも、恐れは完全には消えていなかったようです。確かに、普通の人間であるなら、復讐したかも知れません。兄弟たちは、そのような人間をたくさん見てきたのだと思います。しかし、ヨセフは、まことに神の人でした。それで、『彼らを慰め、優しく語りかけた。』(21節)と記されています。そして、ヨセフもやがて息を引き取りました。その時、ヨセフは、遺言を残しました。自分の遺体は、必ず、約束の地であるカナンの墓地に葬って欲しいというものでした(創世記50章25節参照)。それから約430年後(出エジプト記12章40節参照)、出エジプトの時が来たとき、モーセは、ヨセフの遺言を守り、ヨセフの遺骸を運び出しました(出エジプト記13章19節)。ヨセフの遺言については、新約聖書へブル人への手紙11章21節に記されています。「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。」つまり、ヨセフの遺言により、イスラエルの民は、430年の間、エジプトにいながらも、やがて、カナンの地に出立する時が来ることを覚えていたのです。つまり、ヨセフの信仰のわざにより、イスラエルの民は、力づけられていたのです。
それにしても、「初めに神が天と地を創造された」で始まる創世記ですが、その最後のことばが「棺に納められた」ということばで閉じられていることは、誰も想像できなかったことでした。すべてのものが、非常に良いとされて、悲しみも死の影すらもなかった光に満ちた世界でしたが、その最後は「棺に納められた」という人類の罪の現実の姿でとじられています。しかし、「棺に納められた」ということばは、私たちの希望を閉じ込めてしまったという意味ではなく、死のかなたに、永遠のいのちがある、永遠の御国があるという約束でもありました。なぜなら、この棺に納められたヨセフの遺骸は、将来、イスラエルの民がエジプトを脱出する時、約束の地へと運び出される象徴でもあったからです。
きょう、私たちも信仰の足跡を、後の人に残すことが出来ますように、私たちの人生を導いて下さる神様に祈りましょう。私たちの信仰の人生が、のちの子孫に、復活の希望を与えるものとなりますように。
清宣教師