5章において、いよいよ、モーセは、エジプトの王パロの前に立っています。当時の世界最大のエジプト帝国の王であるパロ、その背後には、世界最強の大軍団が控えています。そのエジプト王パロの前に、無名のモーセが、ただ、主を信じて、立っているのです。そして、主の名によって、エジプトの王パロに、主のことばを伝えました。それは、嘆願ではなく、この世界を創造された全能なる主のことばとして、「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」とパロに命じたのです。
これには、パロも、モーセに対して、すぐさま「私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない」と回答しました。そこで、モーセたちは、今度は命令口調ではなく、マイメッセージで、「私たちの神、主にいけにえを捧げさせてください。でないと、主は疫病か剣で私たちを打たれるからです」と嘆願しました。しかし、結果はおなじでした。パロは「なぜ民に仕事をやめさせようとするのか、おまえたちの苦役に戻れ」とモーセに回答しました。そして、今度は、エジプト王パロは「偽りのことばにかかわりをもたせてはいけない」(9節)という政治哲学に基づいて、イスラエルの民たちが負いきれないほど、労役を重くしました(10節~19節)。イスラエルの民が、王の前に無条件に降伏し、従うことを求めたのです。イスラエルの民たちの労務管理者は、激しく鞭で打ちたたかれました。それで、彼等はパロに直訴します。しかし、その答えは、「おまえたちは怠け者だ」というものでした。それで、モーセが主のことばをパロに伝えたことが、非常に悪い結果をもたらしたことを知りました。それで、彼等はモーセを、直接、激しく非難しました(5章21節)。「私たちを殺すために彼らの手に剣を渡したのです」と言って、モーセたちを非難しました。イスラエル人の労務管理者(人夫がしらたち)は、パロのことばの中に、断固たる措置を取るという決意を知り、また、その原因はモーセたちの言動によることを知ったのです。自分たちの立場が良くなるどころか、正反対に、最悪の状況に陥っていることを悟りました。ですから、モーセたちに対する不信感と不満が、一気に爆発したに違いありません。激しい怒りのことば、悪口雑言が、次から次へと、モーセたちに投げかけられたに違いありません。
しかし、モーセは、返す言葉がありませんでした。事実、その通りの事態が起きてしまったのですから。これはエジプト王パロの術策のとおりでした。モーセと民たちを分断する策略は功を奏したのです。そこで、モーセは、主のもとに戻り、主に訴える以外にすべはありませんでした。主の召しに従って、行動したのに、期待される結果とはまったく正反対の結果を刈り取ることになったのですから、その失望、落胆は大きいものでした。しかし、これが、主の召しです。サタンは主の御計画に対してそれを打ち破ろうとして、圧迫を加えます。しかし、そのときこそ、信仰と忍耐が必要とされる時です。明日の6章1節のことばが答えです。「今にあなたにわかる」(6章1節)。そうです。今にわかる、です。主の召しと計画には間違いがありません。ただ、そこに至るには、困難があります。平たんではありません。信仰と忍耐が必要です。主から召された者は、孤独です。だれからも理解されない孤独を通らされます。しかし、そこで、恨むことなく、ただ一人、主に信頼して、信仰を貫き通すのです。それしか、道はないのです。それが唯一の道です。信仰の道は、孤独です。しかし、主の御手が動く時、その問題は真っ二つにされるのです。主の召しは、人々からの賞賛ではなく、主からの賞賛を求める人に与えられます。
きょう、目に見えるところではなく、目に見えない全能なる主、真実である主に、全き信頼をもって応えましょう。私はあなたを信頼します。
清宣教師