前章の最後でモーセに残った者は弱さだけでした。しかし、7章に入り、主は「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。」(1節)と語られました。主は、モーセが「口べたです」と何度も、しり込みするので、その弱さをも受け入れられて、アロンを預言者(モーセのことばを伝える者)として立ててくださいました。主は私たちの弱さのゆえに、協力者も立ててくださいます。しかし、あとで分るように、これは最善ではありませんでした。次善の策でした。その後、モーセはアロンのゆえに苦しむことが何度もありました。モーセが、主の命に従って、一人の指導者として立っていたら、不要な不一致は起こらなかったし、アロンが高ぶることもなかったと思われます。ふさわしくない人は、何かの責任(立場)を与えられて仕事をやり遂げると、自分の業績を誇り指導者に逆らうことが多いのです。ふさわしくない人が、憐みと恵みにより職務をあたえられたのに、自分がふさわしい人物であると錯覚して高慢になって、指導者に逆らうのです。
それから、2節~6節で、主はこのエジプトで、これから何をなされようとしているかを、その大要をモーセに告げられました。まず、パロの心をかたくなにすること、そのためにしるしと不思議を多く行うことになること、そして、ついには、大きな裁きによりエジプトの真ん中からイスラエルの民を連れ出すことなど、主の御計画のポイントを伝えてくださいました。そこで、モーセとアロンはその任務を行うことにしました。そのとき、モーセは80歳、アロンは83歳でした。このあたりから、モーセの態度には大きな変化がみられるようになります。パロの前で臆することなく、自分に与えられた使命を果たしていきます。
モーセとアロンは、エジプトの王パロの前で、主の力により、杖を蛇に変える奇蹟を行いました。しかし、パロに仕える呪法師たちも、秘術を用いて杖を蛇に変えました。これは、サタンの力によるものと思います。(あるいは、今で言うトリックによるものかもしれません。)しかし、アロンの杖は、彼らの蛇を飲み込みました。しかし、パロは頑なになり、主のことばを聞き入れませんでした。次の日、今度は、ナイル川の水を血に変える奇跡をおこないました。しかし、パロに仕える呪法師たちも同じことをしたので、パロの心は頑なになり、主のことばを聞き入れませんでした。サタンは、主が語られる時、せっかく、貴重なしるしをもって語っておられるのに、それを無効にするために偽りをもって惑わして、人の心を頑なにする作戦をとるようですね。これは、主が御言葉としるしをもって私たちに語って下さるときにも起こる事です。主からのしるしではなかったと思い込ませる作戦です。しかし、祈りつつ、考える時、それが、主から出ていることを確信することが出来ます。私達が祈るなら正しく識別することが出来ます。
パロが頑なになったせいで、エジプトの民は、7日間、飲み水が無くなり非常に苦しました。考えてみればすぐわかることですが、呪法師たちは、主に逆らうのなら、ナイル河の水を血に変えるのではなく、血を水に変える奇跡をおこなうべきでした。それがエジプトの民を救う道でした。しかし、それは出来ないのです。明確なことは、サタンは主がなさることの偽物(みせかけ、いつわり)しか、行い得ないのです。
ナイル川が打たれて(20節~21節)、ナイルの水はことごとく血にかわり、ナイルの魚は死に、臭くなり、飲むことが出来なくなりました。しかし、パロは、民たちの苦しみに心を留めることをしませんでした(7章23節)。それで民たちは、七日間も苦しむことになりました。民の苦しみから目をそむけたパロはエジプトの指導者として、すでに、失格者でした。
ところで、神はなぜ、ナイルを打たれたのでしょうか?ナイルはエジプトでは神としてあがめられていました。偶像として、拝まれていたのです。その偶像を打つことが最初の奇蹟、裁きでもあったのです。いのちをあたえるナイルの水は、ナイル河そのものが恩恵を与えていたのではなく、ナイル川は被造物であり、創造主である神がナイル川を造られて、エジプトの民たちを養っておられたのです。ですから、主はそのことを明らかに示されました。ナイルを神としてあがめていた人たちは、ナイルが主によって打たれて臭くなり、飲むことができなくなりました。それを生かすのは創造主なる神ただおひとりです。生けるまことの神は、創造主なる神のみです。これからあと、創造主なる神は、次から次へと、エジプト人が崇拝していた偶像のひとつひとつに裁きを下していきます。それが8章以降のことです。
きょう、生けるまことの神である主が共にいてくださいます。主に感謝します。
清宣教師