16章1節、エジプトの地を出て、第2の月の15日、と記されています。あの過ぎ越しの夜が第1の月の14日の夜でした。ほぼ、1カ月が過ぎたことを示しています。イスラエルの民はエリムとシナイとの間にあるシンの荒野にはいりました。ここで、大規模な反逆が起こります。
イスラエル人の全会衆がモーセとアロンに向かってつぶやきました。「エジプトの地で、肉鍋の側に座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたら良かったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです」。と訴えました。『パンがない』という問題です。日常的な問題です。主はモーセに語られました。「パンを天から降らせる」という約束です。
そこで、モーセとアロンはイスラエルの民たちに言いました。「主に対するあなたがたのつぶやきを主が聞かれたのです。あなたがたが、この私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何なのだろう」。昨日も記しましたが、民たちのなすべきことは同じ人間である指導者モーセやアロンに対してではなく、問題を解決することができる唯一のお方、全能なる主に対して、直接、願い求めることでした。しかし、それをしないで、同じ人間である指導者モーセに対してつぶやいたのです。彼らは、主を恐れて主に対して直接つぶやくことをせず、指導者に対してつぶやきました。あたかも、「私たちは主を恐れています。主よ、あなたに対して不平はありません。この指導者モーセが悪いのです。」と言いたいようです。でも、これは偽善です。8節で、モーセは次のように語っています。「あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたのです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです」。うまく繕っても、主を、ごまかすことは出来ません。主が立てられた指導者に対して逆らうことは、主に対して逆らうことです。これをうまく使い分ける人がいます。しかし、仲間をごまかせても主を騙すことはできません。全会衆を騙す人がいました。それは真の指導者ではなく、主が立てられた指導者でもありません。全会衆の不平不満をつかみ、指導者モーセに対して逆らわせたのです。このような出来事は、このあとも、何回か起こります。モーセとアロンは全会衆の不平や不満の心をつかむのではなく、主に立てられた真の指導者として、主のみ心をつかもうとしていたのです。
さて、いよいよ、天からのパン、マナが与えられます。日曜日から木曜日まで、毎朝、各自食べるだけ、金曜日は、各自食べる分の2倍(つまり、二日分)、そして、土曜日の安息日は、与えられませんでした。なぜなら、安息日は創造主であり贖い主である神を礼拝するための日であり、食物を得るために働く日ではないからです。そのために、金曜日には、あらかじめ土曜日の安息日の分も含めて二日分、与えられたのです。しかし、その主のみこころを尊重しないで、自分中心の考えで、マナを次の日まで残しておいたり、安息日の朝にマナを集めに行ったりした者がおりました。それで、主は「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。・・・」(28節)と語られました。
ところで、このマナは、毎日、自分の食べる分だけ、与えられました(16節~18節)。それぞれ、その日、食べるだけのマナは保証されていました。マナはイエス様のことを表しています。ヨハネの福音書の中でイエス様はご自分のことを「天から下って来たパン(マナ)である」と言われました。父なる神様は、私たち全員がイエス様のいのちにあって生きるように、イエス様をこの世に送って下さいました。イエス様はご自分のいのちを与えるためにこの世に来られました。
さて、このマナは、イスラエルの民が荒野を旅した40年の間、与えられました(35節)。しかし、約束の地に入ったあとは、マナは降りませんでした。イスラエルの人は約束の地の産物を食べることになりました。私たちも、この地上で、旅人である間は聖書のみことばを糧にしますが、約束の天の御国に入ったなら、聖書ではなく、直接、神のみことばを聞いて養われるのだと思います。
きょう、主よ。私たちに力を与えて下さい。気力、体力、免疫力を増し加えて下さい。愛を増し加えて下さい。主を賛美します。
清宣教師