2章は、穀物のささげ物に関する規定です。穀物のささげ物は3通りありました。穀物の捧げ物は、ヘブル語で、「ミンハー」と言います。穀物の捧げ物は、動物の血による捧げ物に添えて捧げられることが多いので、全焼のいけにえ(1章)の次に、記されていると考えられます。
穀物の捧げ物に共通する注意点は次の通りです・
1.小麦粉であること。2.油と乳香が添えられること。3.奉献者が持参したもの中から、一掴みの小麦粉と油と、乳香全部を記念の部分として祭壇の上で焼くこと(主へのなだめの香りによる捧げ物)。4.残りは最も聖なるものとしてアロンとその子らのものとなる。
「記念の部分」(2章2節、9節、16節)とは、「神が奉献者を覚えて下さる」ということを意味していると考えられている。焼かないで残されるものは、「最も聖なるもの」に分類されており、大祭司アロンとその子たち(祭司たち)しか、食べることが出来ない。このほかに、「聖なるもの」という分類があるが、これは大祭司や祭司だけでなく、その家族も食べることが認められているものを指す。
小麦粉で料理された物を捧げる場合は次の3種類に分けられる。1.かまどで焼く(4節)。2.平なべで焼く(5節~6節)。3.深なべで焼く(7節)。そして、これらの料理に共通する注意点は次の通りです。1、パン種(発酵のための酵母)を入れないこと。2.初物の捧げ物とすること。3.祭壇の上で焼き尽くしてはならないこと。4.塩で味付けること。5.捧げ物に塩を添えること。ここで塩が使われる理由は、「神の契約の塩」(13節)と呼ばれているので、神との契約の象徴として使われたと思われます。初穂や初物が捧げ物として定められているのは、これらの収穫の祝福を与えられるのは創造主であることを覚えるためであると思われます。
今日の個所で、かまど、平なべ、深なべの3種類が記載されていますが、いずれも、火で焼かれるので、試練を意味していると考えられます。つまり、それぞれ、キリストが地上生涯で会われたいろいろな試練と苦しみの度合いを示していると考えられています。1.かまどは、目に見えない主の心と魂の苦しみ、2.平なべは、主イエスがこの世で公けに受けた苦しみ、3.深なべは、十字架の苦しみを含んだ、さらにはげしい苦しみを、それぞれ表していると考えられます。これを私たちクリスチャンに適用するなら、平なべは、フライパンのように底が浅いので、みんなの目に見えます。つまり、みんなの目の前で辱めをうけるような試練。深なべは、底が深いので、他人からは見えません。つまり、自分の心の深い暗闇の中での葛藤などの試練。を現しているのではないかと思われます。主イエス様が、それらの試練を会われたように、私たちクリスチャンも、そのような試練にあうことを覚悟しておくことが大事です。それは真のクリスチャンの人生に必ず、ついてまわるものだからです。主の器となる人は、これらの試練のすべてを通らされます。そして、主の器として形づくられ、内面的にも整えられていくのです。
きょう、ここに記されているような試練があっても、それは主の器となるための試練であり、主の御計画の一部であるきおとを思い出しましょう。試練は、わたしたちを純金にするためのものです。不純物を取り除かれる過程なのです。
清宣教師