第3章は、「和解のいけにえ」についての規定が記されています。牛、あるいは、羊、あるいは、やぎが捧げられました。その捧げ方は共通しておりました。「和解のいけにえ」とは、11節で、主の「食物」と記されています。つまり、神様と民との間の交わりを体験するための宗教的な食事を意味しています。全焼のいけにえは、牛の場合、雄に限定されていましたが、和解のいけにえの場合は、牛の場合、雌でも良いとされています(1節)。やぎの場合も、雌でもよいとされています。そして、奉献の順番は、次の通りでした。1.奉献者は、捧げ物の上に手を置く。2.奉献者が、会見の天幕の入り口のところで、犠牲の動物をほふる。3.祭司は、その血を祭壇の回りに注ぐ。4.奉献者がいけにえを切り分ける。5.すべての脂肪、二つの腎臓、肝臓の上の小葉を主への捧げ物とする。6.祭司はこれを祭壇の上で「食物」として焼いて煙にする。
なお、腎臓が捧げられることに関して、次のような解釈があります。「腎臓」は、心情や思いと関係していると考えられていました。例えば、詩篇26篇2節に「心」と[思い]と記されていますが、ヘブル語の原語では、それぞれ、「心臓」と「腎臓」ということばが用いられています。「腎臓」を捧げるのは、つまり、「感情の座」を捧げるという意味であったと解釈するわけです。11節と16節で、「食物」(ヘブル語でレヘム)と訳されていますが、これは後の時代には、「パン」を意味するようになりました。本来は、「食物」を意味する言葉でした。和解のいけにえでは、主の食卓に預かり、奉献者も自分たちに許された部分を主の前で食べるのでした。ところで、「和解のいけにえ」とは、「和解をするためのささげ物」ではなく、「すでに和解が成立したこと」を喜び、祝うための捧げ物でした。いけにえの血は祭壇のまわりに注ぎかけなければなりませんでした。
新約聖書では、私たちの和解と交わりが回復されるためには、キリストの血潮による犠牲が必要であることを表しています。主の晩餐では、兄弟姉妹はひとつのパンを食します。パンはキリストの象徴です。私たちはキリストにあってひとつのからだ、一人一人はその器官なのです。主の晩餐のご主人は、イエス・キリストであり、参加する私たちは、主の家族として、招かれているのであり、それはただ、主の恵みによるものであることを覚えるのです。
最後の17節には、「どんな脂肪も血もいっさい食べてはならない」と記されています。どんな場所でも、代々守るべき永遠のおきてである、と言われています。ここでは、宗教的な意味での規定ではありますが、私たちの生活に適用するなら、健康の管理のためのひとつの指針にもなると思われます。皆様の体脂肪率はいくらくらいですか。内臓脂肪が多いと、肝臓など内臓のまわりに脂肪が覆ってしまうことになり、肝臓などの内臓の機能が失われてしまいます。最近の研究によると、ご飯などの炭水化物をたべるまえに、まず、野菜などを取ることが勧められています。まず、野菜を食べて、それから魚や肉、最後にご飯などの炭水化物を食べると、血液中の血糖値が急激に上昇することが抑えられるので、三度、三度の食事をとっても、糖尿病などになりにくいようです。食生活と共に、運動にも留意しましょう。健康に留意して、主なる神様から、気力、体力、免疫力をアップしていただきましょう。きょう、喜びと感謝で、私の生活を満たしてください。
清宣教師