きょうは、レビ記18章です。この章は性的純潔についてイスラエルの民としての生き方を示しています。
2節~5節に次のように記されています。「イスラエルの人々に告げて言え。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。あなたがたは、わたしの定めを行い、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行う人は、それによって生きる。わたしは主である。」
18章の内容は「性的な罪を犯すことがないように」との警告であす。「主なるわたしが、あなたがの神である。だから、わたしを神とするあなたがたは、神の民にふさわしく生活しなさい」ということです。まず、強調されていることは、「わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。」ということです。イスラエルの民は、エジプト(この世の象徴)から抜け出てきたのだから、世の習慣や価値観に従ってはならないということです。
それは、私たちクリスチャンにもあてはまることです。現代の罪の特徴のひとつは、性的腐敗です。結婚によらない同棲、複数あるいは多数の人との性的な交わり、不倫、同性愛・・・・など、今ではそれが罪としてではなく、個人の自由、自己啓発、個人の人権などという範疇に入れられています。世の習慣、世の価値観と完全に訣別することが求められています。聖書の価値観に立たなければ簡単に、世の価値観に逆戻りしてしまいます。聖書の価値観は真理であり、世の価値観は偽りです。世の価値観が魅力的で、慕わしく見えても、偽りです。心に好ましいものによってではなく、聖書の真理に堅く立たなければなりません。「そこで、女(エバ)が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで、女(エバ)はその実をとって食べ、一緒にいた夫(アダム)にも与えたので、夫も食べた。」(創世記3章6節)と記されています。どんなに心に好ましく、目にも慕わしく、良く見えるものでも、それが死に至る毒を含んでいるなら、破滅です。妻と夫の間に、心が通い、同じものを共有する感情があるとしても、それが幸せをもたらすものではありません。それが死に至る毒を含んでいるなら、ふたりとも破滅するでしょう。聖書の真理だけが、真のいのちを与える道です。
私の思い、私の感情を共有して欲しいというのは、ある意味、滅びをもたらす危険性を秘めていることに気付くことが必要です。夫と妻の間でも、私の思い、私の感情よりも、聖書の真理に合致しているかどうか、判断して、お互いに正すことが求められています。兄弟姉妹の中でも同じです。思いや感情を共有する交わりは心地よいものですが、真理が優先します。神のみこころは、「神の国と神の義をまず、第1に求めなさい」です。偽りの中に生きるのをやめて、真理のなかに生きることが最優先です。その中での交わりです。間違いのない友情とは、真理を中心において、お互いの思いや感情を共有することです。
私たちはクリスチャンとして、この世から選ばれ、神の子どもたちとして召されました。しかし、もう一度、主によって、世に遣わされました。ですから、私たちはこの世に生きています。「あなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。あなたがたは、わたしの定めを行い、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。」私たちは、週の初めの日に、教会にあつまり、主を礼拝します。主は、私たちを約束の地に導き入れようとしておられます。この世の価値観に浸っていると、1週間というものを、「働いて、働いて、いかにも当然の権利のように7日目に休む」という間違いを犯してしまう恐れがあります。しかし、新約の世界観は、まったく、異なります。私たちクリスチャンは、週の初めの日に、主の前に礼拝します。週の初めとは、主イエス様の復活を記念する日です。私たちは、初めに、復活のいのちを新たにいただいて、世に向かって出て行くのです。世に返るのではなく、世に出て行くのです。イエス様は「行って実を結び」と言われました(ヨハネの福音書15章16節)。また、イエス様の命令に従って、「彼らは出て行って、」(マルコ16章20節)と記されています。また、イエス様は言われました。「あなたがたは行って、・・・」(マタイの福音書28章19節)なのです。「ゴー(行く)」なのです。世に戻るのではないのです。この世界観の転換はとても難しいですが、でも、必要です。この世の世界観に戻るのではなく、新しいイエスの復活のいのちをいただいて、そこに出て行くのです。新しいいのち、新しい世界観を浸透させるためです。福音に生き、福音を浸透させるためです。
清宣教師