2節に、主に特別な誓願を立てる場合、と記されています。誓願とは、神様が自分の祈願をかなえて下さるなら、これこれの捧げ物をします、という約束のことであると思われます。自分の誓願をぜひ、聞き届けて欲しいという強い意図からでたものです。それはある事が実現してほしい、ということもあり、逆に、ある事が実現しないでほしい、という誓願もあります。そこで、自分の子を捧げるというような誓願もあったようです。もちろん、すでに律法にあったように、モレクの偶像にいけにえとして子供を捧げるようなことは死に値する罪として禁じられていました。しかし、異教の習慣のように、いけにえとして子を捧げるのではなく、神に仕える者として捧げるということは許されていました。のちに、ハンナがその子サムエルを神に仕える者として、神に捧げたことが記されています。また、誓願の実現の代わりに、自分自身を捧げるということもありました。そういう意味で、ここでは、特別な誓願と言われています。この場合、捧げられる人を祭司が評価することになっていました。ナジル人として生涯を聖別したり、聖所のしもべとして献身したり、主に聖別することが行われたようです。
「その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女なら、その評価は三十シェケル。五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。」と記されています。年齢や性別によって金額が異なるのは労力の差によるものです。何故、評価があるのかといいますと、あとで、この誓願を実行できなかったときのためです。自分自身を主の奉仕のために捧げますと約束しながら、後でその約束を翻した場合のためです。その場合は、自分を捧げるという約束の代わりに、この評価額を支払うことで責任を果たしたのです。20歳から60歳までの男性の場合は、銀50シェケルでした。1シェケルは1か月分の給料に相当します。つまり、50カ月の給料分です。家が建つくらいの金額です。
イエス様は、みだりに誓うことを禁じられました。塔を建てるには、最初にすべての費用を計算してから建てはじめるように勧めています。そうでないと、途中で資金が足りなくなり、塔の建設が中止になってしまうことがあるからです。同様に、神様の前に自分自身を捧げようとする時、どのような犠牲があるかを十分に覚悟してから、献身することです。途中で投げ出すようなことがあってはならないからです。
次に、家畜や家を捧げる場合も、祭司が評価しました。畑の場合は、収穫物の量に換算して評価しました。詳しく読むと、誓願にもかかわらず、あとで損得勘定で心変わりしたり、他のもので代用しようとしたり、人間の心の中には、いろいろな誘惑が起こってきます。それらに対して、具体的に、あらかじめ律法の中に示すことにより、誓願をしたものが罪を犯さないようにとの配慮であると理解できます。
そして、最後に、「以上は、主がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。」ということばで締めくくっています。
つぎは、いよいよ、シナイ山のふもとで宿営していたイスラエルの民が、荒野の旅を再開する民数記に入ります。
私たちも、神のみことばを通して、主のみこころを学んだなら、この世での実践が待ち受けています。同時に、主の約束のことばがあります。「見よ、世の終わりまで、いつも共にいる」というイエス様の約束です。レビ記を通して、多くのことを教えていただきました。主に感謝します。
清宣教師