5章は、これまでの流れとは異なり、流れを中断するような形で挿入されていますが、その理由は明らかではありません。
大きく分けて、3つの事柄から成り立っています。
まず、1.汚れた者を宿営から排除することについて記しています。「らい病人、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せ。」と命じています。それは宿営は、聖なる神の住む聖所があるところであり、そこに宿営する者も、聖なる者でなければならないことを意味しています。それで、イスラエルの人たちは、主が命じられたとおりに行いました。
第2に、5節~10節です。罪過のための賠償に関する定めです。レビ記の6章で、罪過のためのいけにえに関連して、祭司による評価額とそれに5分の1を加えた額で、弁償しなければならないことが定められていました。ここでは、被害者が死んで賠償額を受け取ることが出来ないケースについて記されています。まず、その人に近い親戚が受け取る事、もし近い親戚もいない場合は、主のものとされ、祭司が受け取ることが定められています。
第3に、11節~31節ですが、不信の罪を犯したとして告発されている妻についての定めが記されています。もし、この女性が不倫の罪を犯したという二人の目撃者の証言があれば、この女性も相手の男性も、石打ちの刑に処せられました。死刑ということです。しかし、目撃者がなく、明白な証拠もない場合、あるいは、その夫が、妬みの心からであっても、妻が不信の罪を犯したと祭司に訴えるなら、その夫は、祭司の前に妻を立たせて「妬みの捧げ物」あるいは、「咎を思い出す覚えの穀物の捧げ物」を捧げる必要がありました。
祭司はきよい水を土の器に取り、幕屋の床にあるちりを取ってその水に入れました。妬みの捧げ物を捧げた後、祭司は女に誓わせ、『もしも、他の男があなたと寝たことがなく、またあなたが夫のもとにありながら道ならぬことをして汚れたことがなければ、あなたはこののろいをもたらす苦い水の害を受けないように。しかしあなたが、もし夫のもとにありながら道ならぬことを行なって身を汚し、夫以外の男があなたと寝たのであれば、主があなたのももをやせ衰えさせ、あなたの腹をふくれさせ、あなたの民のうちにあって主があなたをのろいとし誓いとされるように。またこののろいをもたらす水があなたのからだにはいって腹をふくれさせ、ももをやせ衰えさせるように。』と宣言しました。その女は『アーメン、アーメン。』と言って応答するのです。祭司はこののろいを書き物に書き、それを苦い水の中に洗い落とし、この苦い水をその女に飲ませました。
その結果、その女が夫から訴えられているように不信の罪を犯しているなら、呪いのとおりに、その女の腹はふくれ、そのももはやせ衰えるが、もし、無実であり、潔白であれば、苦い水によっては、害を受けず、むしろ、子を宿す祝福になるというのです。なお、たとい、夫の訴えが間違っていたと判明しても、夫は咎を負うことなない、という定めでした。
「夫にねたみの心が起こって妻をねたむ」ということは、夫婦の間に起こる深刻な問題であると思われます。しかし、それをカウンセリングや法的な手段で解決しようとしても、解決できる問題ではありません。しかし、主の前に持ち出すなら、お互いの間に、疑問が残る余地がない形で、解決されたことと思われます。
どうして、このような3つの事例が、ここで取り上げられているのかは、理由は不明ですが、ともかくも、祭司やレビ人たちの奉仕について定めた後、このような民への定めた必要だったのでしょう。強いて言えば、宿営は、祭司やレビ人たちだけのものではなく、汚れたものや、賠償責任を負う者たち、あるいは、妬みをどうすることも出来ない夫たちなど、一般の人たちの住む所でもあったのです。汚れた者たちとは言っても、一定の期間が過ぎれば、宿営の中に住まう者たちでした。そういう意味で、この章に定められた規定は、祭司たちやレビ人たちの規定と共に記されなければならなかったのかも知れません。
主は、妬みのような思いまで、取り扱ってくださる神様です。人間的なドロドロしたものですが、神様はそっぽを向かれません。私たちの弱さを知っておられます。そして、それを解決してくださるお方です。
きょう、主よ。私たちの思い、私たちの心の中にあるもので、主の御心でないものを取り除いて下さい。汚れを取り除いて下さい。弁償すべきことがあれば思い起こさせてください。妬みによって判断力が曲がっているなら、それを示してください。御国の民にふさわしい者にしてください。
清宣教師