きょうの個所は、コラやダダンやアビラムたちの反逆について記されています。レビ人のコラは、ルベン部族の数名のものと共謀して、民を扇動しました。そこには会衆の上に立つ、会合で選び出された250名のイスラエル人もいました。みな集まり、神が立てられた指導者であるモーセとアロンに立ち向かいました。一見すると分りませんが、彼等には共通点がありました。コラはアロンと同じケハテ族出身というプライドがあり、祭司職がアロン一族のみに委嘱されていることに不満を抱いていました。ルベン族のダダンやアビラムには、イスラエルの長子部族というプライドがあり、指導権がモーセやレビ族に握られていることに不満をいだいていました。250名の会合で選び出された者たちも、民たちによって選ばれたというプライドがあり、自分たちが軽んじられているという不満をいだいていました。つまり、自分たちは正しく用いられていないという不満があったという点で一致があったのです。
反逆者の言い分は、いかにも、正しく見える理由でした。「彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。『あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。』」(16章3節)。確かに、民全体が神の民であり、聖なる民でした。しかし、その民を指導するために、主が立てられた器が、モーセであり、アロンでした。コラやダダンやアビラムや250名の指導者たちにも、それぞれ、素晴らしい役割が与えられていたのですが、そのプライドのゆえに、比較したのです。そして、勝手に優劣をつけて、モーセとアロンを指導者の地位から引きずり落とそうとしたのです。一言で言えば妬みのゆえでした。妬みは、その人自身を盲目にします。そうなると、すべての事柄が、自分自身の考えが正しいという根拠に見えてくるのです。それに仲間が加われば、仲間同士で自分たちの考えに酔いしれて、自分たちが正義のために立ち上がらなければという思いになってしまうのです。その頃には、主に対して反逆しているなどということは、まったく、視野の外に追い出されてしまうのです。
ダダンとアビラムの主張をみれば、巧妙な口実を主張していることが分ります。その誤りを指摘できるのは、仲間ではなく、同情する人でもなく、客観的にものごとを識別する人だけです。彼らは次のように主張しました。「私たちは行かない。あなたが私たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、荒野で私たちを死なせようとし、そのうえ、あなたは私たちを支配しようとして君臨している。それでも不足があるのか。しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地に私たちを連れても行かず、畑とぶどう畑を受け継ぐべき財産として私たちに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。私たちは行かない。」(民数記16章12節~14節)。
事実を巧みに悪用しています。そして、自分たちの主張を裏付けるものとして、もっともらしい解釈を付け加えているのです。まず、モーセとアロンが、民たちをエジプトから荒野に連れだしたのは事実です。モーセとアロンが民の指導者の地位にあることも事実です。そして、約束の地に連れて行くことをやめて荒野で放浪しているのも事実です。これに、解釈を加えるのです。まず、エジプトを乳と蜜の流れる地であったという偽りを吹き込み、モーセとアロンが民たちを支配しようとしているとの偽りを吹き込み、荒野で死なせようとしているという偽りを吹き込み、神の約束の地につれていこうとしないのはモーセとアロンの責任であるという偽りを吹き込んでいます。客観的に見ることが出来ない人は、反逆者の仲間ではないにしても、同情心をもつと偽りに心を寄せてしまいます。
客観的にものごとを判断する能力は、人間に与えられています。客観的に判断できる人は、エジプトは乳と蜜の流れる地ではなく、奴隷としての強制労働に服していた地であったことを知っています。荒野では、なんどもなんども、モーセやアロンの適切な指導と執り成しによりいのちを助けられたことを知っています。神の約束の地に入れずに、荒野で放浪しなければならなくなったのは、モーセとアロンの責任ではなく、モーセやアロンに逆らって約束の地に上ろうとしなかったイスラエルの民の不信仰の罪のゆえだったことを覚えています。これらのことを客観的に覚えていれば、反逆者の主張に賛同することはできなかったはずです。真の愛は、真の識別力を含むものです。
きょう、私たちに真の判断力を与えて下さい。仲間意識で真実を見る目が曇ってしまうことがないようにして下さい。聖霊様の導きに従います。どうぞ、私の心、私の思い、私の霊を聖霊様の臨在によって満たしてください。偽りから守って下さい。上からの悟りを与えて下さい。
清宣教師