13章に続く光景が描かれています。否定的なことばは、肯定的なことばの10倍もの力を持つと言われますが、まさに、イスラエルの全会衆は、10部族の族長たちの否定的なことばに惑わされてしまいました。なんとこともあろうに、「イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。『私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。』そして互いに言った。『さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。』」と記されています。
ヌンの子ヨシュア(ホセア)とエフネの子カレブの二人は、このことを聞いて自分たちの衣を裂いて、全会衆に語りました。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない」。
しかし、会衆は彼ら二人を石で打ち殺そうと言い出したのです。そのとき、主が介入されました。主は、ご自分の栄光を表され、さらに、わたしはこの民を疫病で滅ぼすと言われましたが、モーセは執り成しをしました。その執り成しの祈りのゆえに、主は、民を赦そうと言われました。しかし、次のように宣言されました。「エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない」。ただ、エフネの子のカレブとヌンの子ヨシュアは、別であり、約束の地に入ることが出来ると言われました。
彼らが宿営していたカデシュ・バルネア(13章26節参照)から約束の地までは、およそ11日の道のりでした(申命記1章2節参照)。ところが、全会衆の不信仰の決断により、調査隊が要した40日間を、1日を1年として、イスラエルの民は、40年の間、荒野での放浪生活をすることになったのです。この40年間の荒野での生活を通して、出エジプトした時に20歳以上であった世代はみな、ひとり、ふたりと、すべて死に絶えることになったのです。カレブとヨシュアの二人だけは例外で、この二人は約束の地に入ることを約束されました。そして、出エジプトした時に20歳以下であった次世代の者たちだけが、荒野での訓練を経て、約束の地にはいることが許されたのです。
これを聞いたイスラエルの一部の人たちが、「私たちは罪を犯した。とにかく主が言われたところに上って行って見よう」と言いだして山地に登って行きました。これはまさに、自分勝手な行動であり、当然のように、打ち負かされてしまいました。
今日の個所では、これほどまで、不信仰な民があるのか、と思いたくなりますが、私たち自身に当てはめてみれば、同じことをしていることに、思い当たります。本当の信仰とはなにか、いい加減な信仰とは何か、イスラエルの民の生き方を通して、教えられます。
きょう、これらの聖書箇所を通して、私たちに信仰者としての真の生き方を教えて下さい。私たちを真の信仰者の生き方へと導いて下さい。
清宣教師