民数記15 章ですが、イスラエルの民は、不信仰の罪のゆえに、40年間の荒野の旅をすることになり、改めて、行軍を開始することになります。その前に、ここでは、もう一度、すでに述べられた定めのいくつかについて、補足説明をしています。内容的には、5つです。第1に、穀物の捧げ物について(2節~16節)、第2に、初物の麦粉のパンの捧げ物(18節~21節)、第3に、罪のためのいけにえ(22節~31節)、第4に、安息日のたきぎ集め(32節~36節)、最後に、着物の裾の4隅のふさ(38節~41節)について記されています。
1の穀物の捧げ物、2の初物の麦粉の捧げ物については、2節に「わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り、特別な誓願を果たすために・…」と記されている通り、また、18節に、「わたしがあなたがたを導いて行く地にあなたがたが入り、その地のパンを食べる時・・・・」と記されている通り、これらの1と2の捧げ物についての規定は、イスラエルの民が、約束のカナンの地に入って、そこに定住して、作物を栽培して、収穫を得た時の定めです。荒野での定めではありません。約束の地に入るのは、このあと、約38年ほどの歳月を過ごしてからのことです。約束の地に入ることが出来るのは、次世代の民だけでしたが、ここで、イスラエルの次世代の民が約束の地に入るための心備えをするために、改めて、イスラエルの民に語られたものと思われます。
第3の罪のためのいけにえについての記述ですが、過って、主のおきてを破ってしまった場合の罪のためのいけにえです。1.会衆が罪を犯した場合は、全焼のいけにえとして若い雄牛1頭、穀物の捧げ物、注ぎの捧げ物、それに罪のためのいけにえとして、雄ヤギ1頭を捧げました。2.個人が罪を犯した場合は、罪のためのいけにえとして一歳の雄ヤギ1頭を捧げなければなりませんでした。これはすでに示されたレビ記4章の補足説明です。レビ記では、「主がするなと命じたすべてのうち、一つでもあやまって行い、罪に定められた場合」(レビ記4章22節、27節)と記されていましたが、この民数記の15章23節、24節では、「気付かずに、行なわなかった罪」と記しています。「あやまって」あるいは「気付かずに」犯した罪ということです。つまり、旧約時代のいけにえは、過失である場合のみ(15章25節)、そのいけにえは有効です。
第4の安息日に仕事をしていた者のことですが、最初、モーセは、どのようにすべきか明確な指針が与えられていなかったので、どのようにすべきか、主の指示を待ちました。その結果、安息日の戒めを破った男には、石打ちの刑が言い渡されました。
最後の着物の裾の四隅のふさに関しては、日常生活の中で、主の戒めを思い出すための助けとなるようにとの主のご配慮でした。
さて、今日の聖書箇所の中で記されていた、第3番目の罪のためのいけにえですが、前述しましたように、旧約時代のいけにえは、過失である場合のみ(15章25節)、そのいけにえは有効です。故意に罪を犯した場合には、いけにえは無効でした(15章30節)。ところが、新約時代の場合、その赦しの制限が取り除かれました。故意に罪を犯した場合でも、罪を告白するなら許されます。イエス・キリストの十字架の贖いは、故意に罪を犯した場合でも、適用されるのです。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙、第1、1章7節下~9節)。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙、5章6節~8節)。
もし、旧約時代のように、気付かずに犯した罪、誤って犯した罪だけが、いけにえによる赦しの対象であるとしたら、私たちは滅びる以外にありませんでした。なぜなら、私たちは、良いことを知っていても実行せず、悪いと知っていても実行してしまう存在です(ローマ人への手紙、7章18節~24節)。しかし、神の御子、イエス様はすべての罪、私たちの故意に犯した邪悪な罪さえもご自分の身に負ってくださり、私たちの罪を赦して下さるのです。父なる神様も、御子イエス様も、私たちの極みまで、すべての罪を取り除いて下さるのです。
きょう、改めて、主に感謝いたします。故意の邪悪な罪さえも、みずから負って、贖って下さる御子イエス様に感謝いたします。絶望の中に救いの道を開いて下さり、ありがとうございます。主イエス様の真実な愛を感謝いたします。イエス様の愛の中に、留まらせてください。
清宣教師