この7章は、出エジプト記40章の会見の天幕の完成に続くような内容となっています。幕屋を建て終わった日に、モーセが油を注ぎ、すべての器具や祭壇や用具を聖別したあと、イスラエルの12部族の族長たちが捧げ物をしました。
それはおおいのある車六両と雄牛十二頭で、族長ふたりにつき車一両、ひとりにつき牛一頭で、彼らはこれを幕屋の前に連れて来ました。
そこで、主はモーセに告げられました。「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」
そこでモーセは車と雄牛とを受け取り、車二両と雄牛四頭をゲルション族に、車四両と雄牛八頭をメラリ族に与えました。しかしケハテ族には何も与えませんでした。いかにも不平等に見えますが、理由がありました。それは、彼らの職務と関係がありました。ケハテ族の場合は、至聖所や聖所の中の聖なるものを運ぶ役目でしたが、それはみな、彼らの肩にかついで、運ぶべきものだったからです。次に、ゲルション族は、幕屋の天幕やじゅごんの皮や、垂れ幕やひもなどを運ぶ役目でした。それで車2両と雄牛4頭の割り当てでした。メラリ族は、幕屋の板、横木、柱、それにあの重い台座などを運ぶ役目でしたから、車4両と雄牛8頭を割り当てられました。平等ではありませんでしたが、公平な分け方でした。
私たちは、平等ということを大切にしますが、平等=公平とはなりません。本来は、平等よりも公平ということが大事な意味をもっているように思います。例えば、食事の量や内容を取り上げると、幼児には幼児にふわわしく、大人には大人にふさわしく、高齢者には高齢者にふさわしく、それぞれの量や内容を決めるのが大切です。神様は、公平を重んじておられることを示唆しているとおもいます。
一方で、族長たちは祭壇奉献のためのささげ物を捧げましたが、それは、順番こそ、異なりましたが、すべての族長たちに全く平等の捧げ物を望まれました。
第一日にささげ物をささげたのは、ユダ部族のアミナダブの子ナフションでした。そのささげ物は、銀の皿一つ、その重さは百三十シェケル。銀の鉢一つ、これは七十シェケルで、この二つには穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉がいっぱい入れてありました。また香を満たした十シェケルの金のひしゃく一つ。全焼のいけにえとして若い雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊一頭。罪のためのいけにえとして雄やぎ一頭。和解のいけにえとして雄牛二頭、雄羊五頭、雄やぎ五頭、一歳の雄の子羊五頭。以上でした。
第2日に捧げ物をしたのは、イッサカルの族長、ツアルの子ネタヌエルでした。その捧げ物の内容は、第1日と全く同じものでした。
第3日に捧げ物をしたのは、ゼブルン族の族長、ヘロンの子エリアブでした。その捧げ物の内容は、第1日と全く同じものでした。
第4日は、ルベン族の族長、シェデウルの子エリツル。第5日は、シメオン族の族長、ツリシャダイの子シェルミエル。第6日は、ガド族の族長、デウエルの子エルヤサフ。第7日は、エフライム族の族長、アミフデの子エリシャマ。第8日は、マナセ族の族長、ペダツルの子ガムリエル。第9日は、ベニヤミン族の族長、ギデオニの子アビダン。第10日は、ダン族の族長、アミシャダイの子アヒエゼル。第11日は、アシェル族の族長、オクランの子パグイエル。第12日は、ナフタリ族の族長、エナンの子アヒラでした。彼らはみな、第1日と同じ内容の捧げ物をしました。
毎日、同じ捧げ物なら、以下同様と記しても良いところと思われます。しかし、聖書は、同じ捧げ物にもかかわらず、12回も、繰り返し、記しています。おそらく、神の前には、決して以下同様の捧げ物としてではなく、それぞれの部族の捧げ物として受け取られたということの証しのように思われます。12部族の捧げ物はみな、神の前に平等に捧げられました。それを強調するために、84節で、12部族が捧げたものの総計を改めて記しています。それはすべて、12の倍数でした。
89節は、幕屋の奉献の結びのことばとして記されたものと思われます。「モーセは、主と語るために会見の天幕にはいると、あかしの箱の上にある「贖いのふたの二つのケルビムの間から、彼に語られる御声を聞いた。主は彼に語られた。」
12部族は、イスラエルの諸部族であり、ひとつの国家をなすものでした。イスラエルの12軍団の創立など、民数記において、イスラエルの民は、全体としてひとつの国家として形成されていくのです。人口調査も、その礎となるものでした。個人、家族、氏族、部族、そして、ひとつの国家を担うものとしての共同体の一員であることが自覚されていくのです。
私たちは御国の一員です。異邦人もユダヤ人も含む神の国の建設の一員です。教会にはとても大きな使命があります。この地を治める使命です。主よ。あなたの御計画を知らせて下さい。私たちの前に明らかに示してください。そして、どうぞ、私たちを主の御計画の実現のためにお用い下さい。
清宣教師
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