民数記19章は、「赤い雌牛によるきよめ」について記されています。
「人の死体に触れる者は汚れる」ということは、これまでにも何度か言及されていました。しかし、その汚れの期間や、その汚れからのきよめの方法については記されていませんでした。その点を明確にしたのが民数記19章です。それらの汚れからのきよめに必要なきよめの水について記しています。
1 節~10 節:傷がなく、まだくびきの置かれたことのない(つまり、労役に用いられたことがない)完全な赤い雌牛を、イスラエル人から受け取り、祭司エルアザルに渡すように命じられています。祭司エルアザルはその赤い雌牛を宿営の外に連れ出して、エルアザルの前でほふり、その血を7たび、会見の天幕の正面の方向に向かって振り掛けたあと、そこですべての部分が焼かれました。そして集められた灰は宿営の外のきよいところに置かれて、きよめの水をつくるために保管されました。これらの作業にたずさわったものはみな、汚れをきよめるため、衣服を洗うことが必要でした。
11節~22節:きよめの水が用いられたのは、人の死体に触れたもので、汚れの期間は7日間でした。どのような状態で死体に触れたかにより、やり方が異なるので、それぞれのケースについて、やりかたが記されています。
ところで、「赤い雌牛」というと、めずらしく思います。以前、横山隆先生のメッセージの中でも、「赤い雌牛」について語られたことがありました。普通、赤い雌牛はいませんが、岩手県には「あかべこ」の玩具がありますが、まさに「赤い雌牛」です。旧約聖書の「赤い雌牛」の名残かも知れません。
旧約聖書では、汚れからのきよめをとても大事にしていますが、新約聖書に入ると、外面的な汚れよりも、心の中の汚れがクローズアップされているように思います。イエス様は、パリサイ人や律法学者が、手を洗う儀式やその他の儀式を守ることに汲々としている姿を偽善者と呼んでいます。つまり、外面的な汚れに、生活の焦点をあてていると、内面的な汚れについての意識が希薄となり、ついには、自分たちの手も足も、全身がきよい生活を行っているという自負心に取りつかれてしまいます。イエス様は、彼らを偽善者と呼び、「白く塗られた墓」と呼んでいます。内側は邪悪なもので満ちているのに、自分たちは、きよいという自己義認の衣装をつけてしまうのです。
イエス様は、山上の説教の中で、くりかえし、くりかえし、内面に焦点をあててメッセージをされました。マタイの福音書、5章~7章に記されています。私たちの心の焦点は外面的なことではなく、私たちの心に向けられるべきです。しかし、その焦点の当て方は、自分の罪と汚れの深さに埋没するやりかたではなく、私たちの心の中から罪を取り除き、きよめてくださるイエス・キリストの血潮を見ることです。マタイの山上の説教の中でも、憎しみや情欲や敵対心やプライドなどに焦点をあてて終るのではなく、それらのものを解決するために来られたイエス様の救いに焦点を当てています。すでに、天の御国は来たのです。だから、幸いなのです。自分自身にではなく、自分自身を超越した「神の国と神の義」を求めること、そこから、全き解決が来るのです。
きょう、私たちは主イエス様の贖いにより、聖霊様のきよめにあずかることが出来ます。どうぞ、私たちの最も深い隠れたところまで、主にお委ねしますから、どうぞ、聖霊様触れて下さい。清めて下さい。聖なる主の御名を賛美します。
清宣教師