少し前の民数記25章には、ミデアン人の女たちの誘惑により、イスラエルの指導者や民たちの一部が、バアル・ペオルの偶像を拝む罪を犯した事件がありました。そのとき、25章16節において、主はモーセに告げられました。「ミデヤン人を襲い、彼らを打て」。そして、きょうの31章の1節で、モーセの人生最後の任務のひとつとして、「ミデヤン人にイスラエルの仇を報いよ。」という主からの命令を受けました。「そのあと、あなたは、あなたの民に加えられる」と主は言われました。40年間の荒野での放浪生活を経て、目前に、カナンの約束の地が広がっています。モーセはイスラエルの民たちと一緒に約束の地を自分の足で踏みたかったことでしょう。しかし、主はモーセに対して、カナンへの入国の許可は出されませんでした。モーセに代わって、次世代のヨシュアが約束の地へとイスラエルの民を導くのが、主のみこころでした。でも、モーセには、ひとつの課題が残されていたのです。イスラエルを、巧妙に、偶像礼拝に陥れたミデアン人に対して、罰を与えることでした。
そこで、モーセは、一部族ごとに千人の戦士たち、12部族で1万2千人の戦士たちを招集しました。それから、祭司エルアザルの子のピネハスを呼び寄せて、聖具(聖所の器や祭司の式服などのこと)とラッパをその手に持たせて、ミデアン人との戦いに送り出しました。そして、イスラエルの戦士たちは、ミデヤン人と戦い、男子たちをみな殺しました。それから、ミデヤン人の5人の王たちを殺しました。その中には、25章15節に記されているコスビの父親のツルの名前が含まれています。また、あの雇われ呪術者のペオルの子バラムを剣で殺しました。22章から24章まで、バラムのことが記されていますが、24章の最後には、「バラムは立って自分のところへ帰っていった。」と記されています。22章から24章までの個所では、バラムはイスラエルを呪うことをせず、かえって祝福しました。それは雇い主のバラクを怒らせることになり、バラムは無報酬で自分の町に帰ったと記されていたのです。ところが、きょうの25章では、突然、一転して、イスラエルの戦士が、バラムを処刑した記事が載っております。
そこにはわけがあったようです。雇われ呪術者バラムは、あのときはイスラエルの民を呪うことを主が許されなかったので、呪いませんでした。しかし、バラムは、そのまま、無報酬で帰ったのではなく、ミデヤンの女性をもちいて、イスラエルの民を堕落させる方法をバラムに進言したようです。それで、報酬を手に入れたようです。なぜなら、新約聖書のペテロの手紙、第2、2章15節には、「彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。」と記されています。また、ユダの手紙11節には、「忌まわしいことです。彼らは、・・・利益のためにバラムの迷いに陥り」と記されています。バラムは不義の報酬を愛したため、結局は裁きを受けることになったのです。
さて、イスラエルの戦士たちは、獣や家畜、財産を奪い、それにミデヤン人の女や子供を虜にして帰ってきました。それを見たモーセは怒りを燃やしました。なぜなら、イスラエルの民たちを偶像礼拝に誘ったのは、ミデヤン人の女性たちだったからです。そこで、モーセは、男と寝ることを知らない若い女だけを残して、残りの者たちを処刑するように命じました。また、祭司エルアザルに命じて、戦士たちが身を清めてから宿営に入るように指示しました。さらに、敵から分捕った物を、戦に参加した全兵士たちと、宿営に残っていたすべての民との間で、平等に、二分するように命じました。そこで、すべての分捕り物について、戦士たちと全会衆に二分しました。また、レビ人や祭司たちに捧げる分を定めました。
一方、軍団の指揮官たちは、神の御業に感謝して、自発的に、自分たちの分捕り物から捧げ物をしました。自分たちの部下を点呼した結果、今回の戦いで、一人の兵士も失うことがなかったことが分かったからでした。指揮官たちは、あふれる感動と感謝のゆえに、自発的な捧げ物をしたのです(48節~50節)。
きょう、警告されていることがあります。それは、不義の報酬を愛したバラムのようになってはならない、ということです。私たちも主のことばをいただくものです。一方で、金銭的な誘惑があります。例えば、本来、神様に捧げるものなのに、ほんの少しだけ、自分のためにとっておくという誘惑です。これはサタンの誘惑のひとつの方法です。「神と富とに兼ね仕えることは出来ません」と聖書には記されています。
御霊に満たされた人には霊的な識別力があります。肉の欲によって識別力が曇らされることがありません。もし、肉の欲に妥協していきる道を選ぶなら、それは、その人の生涯を決定づけてしまう恐れがあります。口には出しませんが「神恐れるに足らず」という生き方です。クリスチャンが「お金がすべてである」という人生観を持つことは稀であると思います。しかし、クリスチャンでも、結婚、職業、進路の選択など物事の判断にあたって、お金(経済的な条件)を優先順位の第1に置いてしまうという失敗をする人は少なくありません。御霊に満たされている人は、神の国と神の義を第1にして判断します。御霊に満たされたクリスチャンとして生きることが、私たちの使命です。
清宣教師
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