ここでは、レビ人が住む町々、そして、逃れの町について記されています。レビ人たちは、イスラエルの初子の代わりに神に捧げられた者たちであり、主のものでした。主ご自身がレビ人たちの相続分でした。レビ人たちは祭司を含めて、全イスラエルに代わって、会見の天幕(のちには神殿)で仕える者たちです。現実問題としては、レビ人たちにも、祭司たちにも、住む所は必要です。それから、レビ人たちも家畜を飼っていたので、放牧地が必要でした。それで、今日の個所では、レビ人の放牧地として、町の周囲の1千キュビト(約440メートル)が割り当てられました。町を真ん中にすると、東西南北、2千キュビトになると表現されています。この意味は不明です。レビ人たちに与える町は、総計、48の町でした。そのうち、人をあやまって殺した者が逃れるための「逃れの町」が6つ、それ以外の町が42でした。大きな部族からは多く、小さな部族からは少なく提供するようにとの指示がなされました。逃れの町は、どこからでも、日が暮れる前に逃れることが出来るように、ヨルダン川の西側に3つの町、ヨルダン川の東側に3つの町を設けるように指示されています。実際の分配結果については、ヨシュア記21章に記されています。逃れの町は、ヨルダン川の西側では、ユダ部族のヘブロン、エフライム族のシェケム、ナフタリ族のケデシュでした。それぞれ、ヨルダン川の西側の南部、中央部、北部に位置する町でした。ヨルダン川の東側では、マナセの半部族のゴラン、ルベン族のベツェル、ガド族のラモテの町でした。それぞれ、ヨルダン川の東側の3つの町でした(2節~15節)。
逃れの町に逃げ込むことが出来るのは、あやまって人を死なせたものだけであり、故意に人を死なせた場合は、ここに入ることは出来ず、正式の裁判をうけなければなりませんでした。鉄の器具の場合、石の道具の場合、木製の器具の場合、手を用いた場合など、細かく、判断の基準が示されています。そして、故意の殺人でなければ、その人を逃れの町で生きることができるように、逃れの道を備えるように命じました。ただし、その者が、逃れの町の外に自分で出た場合は、その特権は消失することが定められています。唯一、逃れの町から自由になれるのは、逃れの町に逃げ込んだ当時の大祭司が死んだときでした。このときだけは、自分の所有地に帰ることができました(16節~29節)。
なお、故意の殺人の場合でも、二人以上の証言が必要でした。また、贖い金の制度は、殺人の場合は適用されないことを明示しました。殺人の血によって汚された土地が贖われる唯一の方法は、殺人者の血によってのみであると述べています。そして、自分たちの相続地を汚してはならないと命じています。なぜなら、主が、相続地の真ん中に宿られるからです。
ダビデが殺人の罪を犯した時、つぎのように、告白しました。「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51篇1節~17節)。私たちクリスチャンにとっての逃れの町とは、イエス様のもとです。ヨハネの手紙第1、1章7節~9節には、次のように記されています。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」主よ、感謝します。
清宣教師