今日の4章は、申命記全体の要約ともいえる個所です。そして、いよいよ、5章から11章の基本的な神の戒め、さらに、6章から26章までの特定の神の戒め、という神の律法について、モーセが説教します。これは、まさに、モーセが人生の最期に、全身全霊をもって、イスラエルの民に対して、神のみこころの真髄とそのすべての内容を語った告別説教です。
さて、1節の冒頭のことばは、「今」です。いま、聞きなさないです。1章から3章まで、モーセは過去の歩みについて振り返り、簡単にまとめました。しかし、重要なことは、「今」です。今は、過去の終着点であり、未来への出発点です。神の民にとって、いま、主のことばを聞いて、主に従うことが、祝福の道です。過去がどうであれ、いま、みことばを聞き、みことばに従うチャンスが与えられています。
4節、「あなたがたの神、主にすがってきたあなたがたはみな、きょう、生きている」。私たちは今日も、生かされています。それは神様の恵みです。しかも、私たちは、6節に記されていますが、まわりから、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言われる存在です。神のみことば、神の知恵をもって、教えられてきました。まさに、7節に記されていますが、「まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか」。
しばしば、私たちは、どんなに偉大なものを与えられれている存在であるのか、すっかり忘れているように思います。あるいは、忘れているというよりも、分っていないようにも感じます。なにしろ、この宇宙を無限の知恵と愛をもって造られた偉大な神様のことを、真剣に考えれば考えるほど、自分たちは知らないことの方が多いことに気付くからです。
「宇宙」ということばの中身、「知恵」ということばの中身、「愛」ということばの中身、「神」ということばの中身を、ほんとうに、知っているでしょうか、それぞれのことばは、単語としては知っていますが、その意味は途方もなく膨大で、深く、簡単ではありません。私たちはだれひとり、宇宙のすべてを見たものはいません。私たちが経験しているのは地球です。宇宙の100億分の1の、さらに、その100億分の1の、さらに、その100億分の1も経験していません。その「知恵」についても、同様です。宇宙を創造され、すべての生命を創造される知恵とは、いったい、どんなに、どんなに、どんなに大きな知恵でしょう。「愛」も同じですね。ひとつの単語ですが、神の愛は、70数億の人たちを、ひとりひとり愛し、無数の天使たちを愛し、すべての被造物を愛されるのですから、私たちの想像の限界を超えています。途方もない内容を含むものです。「神」ご自身については、私たちは、あたかも知っているかのように振舞いますが、しかし、わたしたちの知るところは、無限小です。私たちは、それぞれのことばのもつ内容を、10億分の1も知っていないということに気付きます。
ところで、20節に記されていますが、主はイスラエルの民を「ご自分の所有の民」とされました。出エジプト、そして、約束の地への入国は、イスラエルの民が約束の地を所有することがテーマのようですが、じつは、イスラエルの民が、神の所有とされることこそ、恵みの中心なのです。私たちクリスチャンも、神の国を相続することが約束されています。しかし、本質的に大事なことは、私たちクリスチャンは「神の所有の民」とされたという途方もない恵みです。御国を所有することにのみ心が奪われることのないように、主の恵みの中に生かされていることを自覚して、主のみこころに生きる道を選択することが大切です。
さて、私たちは、神の所有の民として、素晴らしい特権を与えられています。それは、私たちの助け主である聖霊様が、天の御国の真理をひとつひとつ、教えてくださることです。「このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか」という告白は真実です。私たちの理解はあまりにも表面的であることに気付くことが大事です。もっと深く、もっと深く、主から知恵をいただいて、世にある周りの人たちから「確かに知恵のある、悟りのある民だ」と言われるクリスチャンにふさわしくなりたいです。そのための秘訣が、きょうの1節のことば「今、聞きなさい」です。主のみことばを聞くことから、すべての理解が始まります。なお、もうひとつ、強調されていることは、私たちが、自分たちが見た事、気付いたことを私たちの子どもたちに、次世代の人たちに伝えていく責任です(9節参照)。
きょうの4章は、申命記全体の要約と言われるだけあって、内容が豊かです。時々、この箇所を読むことによって、この世におけるクリスチャンとしての使命を再確認することが出来るように思います。きょう、この日が、豊かに祝福されますように、主の所有の民として、知恵あるもの、愛のあるもの、悟りのあるものと呼ばれるような存在へと成長させてください。肉ではなく、御霊によって生きるクリスチャンとして歩ませてください。
清宣教師
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