1節~3節:主から約束の地を相続した時、その地において、かつて異邦の民が偶像礼拝に使用していた祭壇や神々の彫像をことごとく粉砕して、その痕跡を消し去り、決して、彼らの真似をすることがないようにとの指示がなされています。
4節~28節:約束の地において、主を礼拝する場合、それは主が選ばれた場所でしなければならないこと、勝手に自分たちの住む所でしてはいけないこと、つまり、いけにえを捧げる場合は、必ず、主が選ばれた場所へ行き、捧げる必要がある事を繰り返し、強調しています(5節、11節、14節、21節)。これまでは、おのおのが自分の正しいとみることをしてきました(8節)、しかし、これからは、全焼のいけにえは勝手気ままな場所で捧げてはならない、と命じられています(13節)。かつての族長たちの時代は、主がご自身を顕された場所で祭壇を築き、いけにえを捧げました。アブラハムも、イサクも、ヤコブの時代もそうでした。しかし、出エジプトをして、ひとつの国民として礼拝する時、すべては神によって定められた方法で、定められた場所で、定められた時に、行なうように命じられました。その中で、注目すべきことが語られています。それは、「家族の者とともに」礼拝することが、繰り返し、強調されていることです(7節、12節、18節)。ここで、考えなければならないことがあります。マルチン・ルターが宗教改革を始めてから、家族の信仰というものが、いつのまにか、個人の信仰へと変質してきた経緯があります。最近では、クリスチャン子弟への信仰の継承がうまく行われず、信仰から離れていく傾向が目立つようになりました。これは日本の教会でも同じです。それで、教会とは「家族の家族である」という基本を取り戻そうという運動が始まっています。『家族の者と共に』礼拝することは、とても大事なことです。新約聖書の中でも、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒の働き16章31節参照)と記されています。
なお、大事なことがもう一つ、記されています。それは「血はいのちだからである」(23節)ということばです。律法における動物の血による贖いは、血がいのちであるからです。いのちを贖うものは血です。ですから、新約聖書の中にも、「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(へブル人への手紙9章22節)と記されています。そして、キリストの血こそ、私たちの贖いの根拠なのです。キリストは、「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(へブル人への手紙、9章12節)と記されています。
29節~32節:もう一度、約束の地に入った時には、そこにある偶像礼拝の風習に染まらないように、徹底して、偶像の痕跡を消し去るように命じています。その偶像礼拝の中には、自分たちの子どもたちを火で焼くというようなことさえも含まれていました。主が命じられたことこそ、神の民として、最も大切なことでした。
まとめるなら、「気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、主が良いと見、正しいとみられることをあなたが行い、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。」(12章28節)ということばに要約されている通りです。
それでは、きょうも、家族の救いのために祈りましょう。信仰の継承のために祈りましょう。私たちもヨシュアと共に宣言します。「私と私の家とは、主に仕えます」(ヨシュア記24章15節)。
清宣教師